地雷の宝庫

主に戦後政治史に関する浅い考察。Twitterはこちら(https://mobile.twitter.com/_s8i_) 有権者だけど未成年です。

"緒方筆政時代"から隠蔽と流言飛語の因果関係を読み解く

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l  はじめに
隠蔽とは、辞書によるとあるものを他のもので覆い隠す意味を持っているという。私はかねてより、第一次世界大戦開戦の3年前から第二次世界大戦が幕を閉じる1年前までの約33年という歳月を言論人として生きた朝日新聞主筆緒方竹虎について研究する中で、あるもの、即ち、「不都合な事実」を覆い隠す「他のもの」の正体こそが「流言蜚語」なのではないかと考えるようになった。
緒方自身が書き残した「言論逼塞時代の回想」によると、終戦直後の昭和20年9月27日にマッカーサー司令部が廃止を命じた言論統制にあたる法令、施行規制は「新聞紙法、国家総動員法、新聞紙等掲載制限令、新聞事業令、言論出版集会結社臨時取締法、同上施行規制、戦時刑事特別法、国防保安法、軍機保護法、不穏文書取締法、軍用資源秘密保護法、重要産業団体令及び同上施行規制」であり、これらを改めて精査して、よくもかかる法令の中、新聞を発行できたものだと驚嘆したという。
また、上述の法令のうち最も平凡な新聞紙法を一つ取り上げても、このような事前検閲の制度はナポレオン三世時代以外絶えてない制度だとハロルド・ラスキをして言わしめたほどであったとも語っている。
このような法令は戦時中、どのような場面において用いられたか。
一例を挙げよう。毎日新聞は1944年2月23日付の朝刊に、「竹槍では間に合わぬ、飛行機だ、海洋航空機だ」「大東亜戦争の勝敗は海洋航空兵力の増強にかかっており、敵の航空兵力に対して竹槍で対抗することはできない」という主旨の記事を掲載、時の首相であった東條英機の怒りを買い発禁処分に加えて編集責任者は処分され、執筆した記者は37歳であったのにもかかわらず戦地に招集された。
もう一つ、付け加えて桐生悠々の「関東防空大演習を嗤う」の例を挙げたい。
桐生はロンドン空襲などを引き合いに出して、敵爆撃機の領土への侵入を許してしまった段階で勝機は薄く、防空演習などというものはさほど役に立たないとの見解を示したことが要因で「言いたい事と、言わねばならぬ事と」によると「軍により、生活権を奪われる」事態にまで窮することとなった。
焼夷弾の雨を住宅地に降らす戦闘機を相手に竹槍では戦えないことは明々白々の事実であり、そこに疑う余地など微塵もない。
防空大演習に関しても同様である。実際に、東京大空襲の死者数は確認されているだけでも10万5400人にのぼり、本土を爆撃された段階でいくら演習を積み重ねていても莫大な死傷者を出してしまうことはその後の歴史が証明している。
ならば何故、軍部はこの記事を差し止めるばかりか、まるで見せしめのように執筆者を戦地に招集するなどの厳罰を科したのか。国民が竹槍での抗戦、或いは防空演習への参加を強要されていることに対し、何らかの負の感情を抱くことを阻止したかったのではないかと推測されるが、意図が何であろうと、こういった言論弾圧は明らかな隠蔽であるといって差支えはないだろう。
そして、これらは決して他人事ではなく、現在においても類似した現象が見られる。コロナ禍と呼ばれる昨今の情勢において、感染者の身元が特定され、親族が誹謗中傷を受けるなどの事例が確認されているほか、私が生活している地域でもある特定の地区に住んでいる住民が感染したという情報が町中を駆け巡り、さらなる憶測を生んでいた。
このような状況で、私が感じたのは、自分が感染して同じように噂されたらどうしようという恐怖であった。
そして、その恐怖心ゆえに、更に近隣の地区の住民が感染したという情報に過敏になっていき、根も葉もない誹謗中傷にまで耳を傾けてしまっている自分に気がついたとき、ふと、戦時中のことを想起した。
先述した竹槍事件然り、桐生悠々の記事然り、戦禍の国民の「戦争に負けたらどうしよう」という恐怖心を煽っていた側面があったのではないか。
そうであるならば、恐怖心を煽る報道を拒絶し、根拠の無い戦勝報告を望んでいたのは紛れもない国民自身であり、そういった風潮と体制側の方針が結合することで言論弾圧がより加速していったという風にも捉えられるのではないだろうか。
ここに、わたしは、隠蔽と流言蜚語の因果関係を見た。
底なしの不安を抱えた国民を勇気づけるような虚実で言わねばならぬ現実を覆い隠す。その行き着く先が先の敗戦であったことを踏まえ、私達が今向き合わなければならぬ本質とは何であろうか。
また、流言蜚語という何処から発生したかも分からないものによって命を落とす人間が存在するという事実には余計に危機感を抱かねばならないと感じる。
芸能人に対する匿名の誹謗中傷が切っ掛けで、根拠の無い流言蜚語が蔓延し、それが結果的に誰かの命を奪う、或いは、戦前の例を挙げるならば、関東大震災のあと「朝鮮人が略奪を行っている」という流言蜚語によって虐殺事件が起こった事例(「石井光次郎回想八十八年」によると、1944年に警視庁で行われた講演会において正力松太郎本人が誤報であると認めている)(注1)も存在していること、そういった現実に真摯に向き合い、知らせなければならぬことを伝える政治、言わねばならぬことを発信するメディア、知らねばならぬことと向き合う国民という言論においての健全な相互関係を築くために必要な事柄を冒頭で述べた緒方竹虎の言説から検証していきたい。
 
l  緒方が向き合った言論統制
緒方が最初に経験した言論統制は白虹事件であった。白虹事件とは、1918年8月25日に、当時、富山県で起こったことを皮切りに全国に拡大していた米騒動を鎮静化するべく、治安維持という名目で寺内内閣がこの騒動に関する一切の報道を差し止めたことを皮切りに、新聞各社が寺内内閣弾劾運動に立ち上がった最中に起こった事件のことである。大阪で行われた記者の決起集会を特集した朝刊の紙面で「白虹日を貫けり」という言葉を用いたことが、内務省、警察当局の目に止まり、主筆であった鳥居素川、社長の村山龍平らが更迭されるなど未曾有の大騒動に発展した。この背景には「白虹日を貫けり」という語に平家物語史記という二つの引用元があることを失念していた新聞社幹部の監督不行届、また、社会部部長であった長谷川如是閑が偶然不在であったという不運が潜在しているが、これは現代の新聞に置き換えても決して他人事とは言えない事件である。「白虹日を貫けり」が秦の始皇帝が暗殺されそうになったときに見られた兆しであり、この語を用いると皇室に対して不敬な発言だと取られる可能性が高いということを思い立つ人がいれば、或いは、念には念を入れて「平家物語からの引用」と明記していれば、このような言論弾圧には至らなかった筈なのである。
現代にもこのような事例は見られる。2020年3月13日に朝日新聞編集委員が「新型コロナウイルスはある意味痛快な存在かもしれない」とTwitterにおいて発言したこともその一例であると私は考えている。
自らの発言が世間にどのような影響を与えるかという意識があれば、このような発言は軽々しくできないはずなのだ。白虹事件はそういった意識があっても教養がなければ防ぎようのなかった事件だが、こういった不祥事は冷静に考えれば防ぎ得る事例である。インターネットという情報発信のツールが急速に普及したことで、以前のように他の社員が事前に点検することは難しくなったのかもしれない。だからこそ、新聞社は社員ひとりひとりの意識を高めるための取り組みを促進させていかないければならないのではないだろうか。ここで、緒方が筆政として論説委員を指導していた時代を振り返ろう。同時代に論説委員を務めていた嘉治隆一の言説によると、論説会議にて社の方針を大まかに伝えたあとは担当者に記事のことを一任し、自らは記事の内容にあまり干渉しなかったが「新聞はいつも高邁な在野精神を忘れてはならぬ」「政府に対しても、民衆に対しても、下から噛み付くのではなく、一段上の見地から諄々と教え説くことが必要である」などといった記者としての心構えや意識の持ち方については普段から論説委員らに話して聞かせていたという。現代においては、情報を取捨選択する能力や文章の書き回しなど技巧的なものこそが一大事とされているような風潮があるが、肝要なのはこういった記者としての意識の持ち方なのではないだろうか。私は文章を書く上でも読む上でも、一番大切なことは「書き手が伝えたいこと」だと思っている。いくら文章が卓越していても、鮮度の高い情報であっても、伝えたいことのない文章には中身がない。逆に、伝えたいことがはっきりしていれば文章が凡庸であっても、読み手の記憶に残ると自分の経験則からも考えている。また、更に興味を持ったのは、緒方の「資本と経営の分離」に対する思いである。嘉治によると、緒方は民衆の喉舌であらねばならない新聞記者が算盤勘定にかまけているような状況を好ましくないと評し、「新聞社における資本と経営の分離を計り、そしてあくまで編集の独立と優位を保つ」ことを生涯においての目標にしていたという。昨今、災害現場などで被災者の心情を慮らない取材が行われているのを報道番組などで目にすることが増えた。また、憶測を掻き立てるような事実から飛躍した記事や、強い語調で特定の組織や人物を攻撃するような記事についても、直近では2020年6月19日に、産経新聞、フジニュースネットワーク(以下FNNとする)が合同で行う「産経新聞・FNN合同世論調査」において直前12ヶ月分の回答の内容に捏造があったことが発覚するなど、枚挙に暇がないのが現状だ。こうした取材体制や流言蜚語とも取られかねない裏付けのない報道の背後には、他社を出し抜いて新しい情報を掴みたい、発行部数や視聴率を伸ばしたいといった報道機関の商業主義的な姿勢が潜んでいるのではないかと私は推測している。そして、このような姿勢を是正するためには、緒方の「資本と経営の分離」に対する先述した考えや思いをもう一度論点にし、報道に携わる多くの人間が健全なジャーナリズムを確立するために意見を交換することが求められているのではないかと感じる。以上の、記者としての意識を高める社内での教育、そして、資本と経営の分離を問い直すという2点が、私が緒方筆政時代を検証するなかで現代メディアに対して持った問題意識と打開策であった。次項では、緒方自身の言説をもとに言論弾圧を推進した政治体制に影響され、例え本意でなかったとしても事実ではない報道を繰り返したメディアの責任と、同じことを三度繰り返さないための新しい言論のあり方について考察していく。
 
l  緒方が見据えた言論界の未来
戦時下においてメディアが犯した最大の過ちは「レイテ大勝」の誤報であったのではないかと私は考えている。1944年の10月25日の午後、大本営は「台湾を目指している米艦隊を攻撃して、米空母4隻の撃沈を含む大戦果を遂げた」と発表した。これをメディアは確証のないまま報道し、国民は疑いもせずに熱狂、当時閣僚であった米内光政海軍大将や首相であった小磯国昭陸軍大将、情報を統括しているはずの情報局総裁を務めていた緒方までもがこれを事実と思い込み、後に誤報だと分かっても撤回しなかった。保阪正康の「陸軍良識派の研究」によると、この誤報大本営に送ったのは瀬島龍三である可能性が高いとのことだが、誰が送ったかは最早問題ではなく、大敗を喫していた海軍が隠蔽のために誤報を流し、それを政府が認め、検証もせずにメディアが報道、結果的に国家ぐるみで壮大な流言蜚語に翻弄されてしまったというところに、私は隠蔽と流言飛語の因果関係が及ぼす問題の根深さを再確認せずにはいられないのである。
このような問題に、言論人として、また、同時に情報局総裁という政府関係者として直面した緒方は、戦後の言論のあり方についてどのような展望を持っていたのか。
緒方は「言論逼塞時代の回想」において、ウィルソン大統領の片腕と称されたニューヨーク・ワールド紙の主筆、フランク・コップの「第一次世界大戦の勃発に際し、ウィルソン大統領は、ひとり中立的な態度を要求しただけでなく、思想の不偏も併せて要求した」ことを引き合いに出し、国民に問いかけることなく強行的な姿勢を取る日本の体制や言論のあり方に疑念を示すと同時に、ワシントン軍縮会議に向かう途中の船で知り合ったネーション誌のオズワルド・ギャリソン・ヴィラードについても言及している。
緒方は、ネーションは「第一次世界大戦中は、ヴィラードの忌憚なき戦争批判のために、一般的には赤という評判を得たほど、無遠慮な論調で、当時の論壇に異彩を放っていた。実際にヴィラードに会ってみて、それが許されたのは、彼の優れた人格にもよるが、何よりも週刊誌という身軽な体質が大きな理由になっていると感じた。」という見解を示している。この一文を読んで私が想起したのは、「昭和史の論点」においての半藤一利の「新聞はみんな裏返ったけど、文藝春秋をはじめとする雑誌は裏返らなかった」という証言であった。また、戦争に抵抗した石橋湛山桐生悠々が筆政を掌っていた「東洋経済新報」や「他山の石」も雑誌媒体であり、比較的、反戦的な気風を持っていたと言われる「福岡日日新聞」や「信濃毎日新聞」は地方紙であった。(戦時下の地方紙に関しては、NHK スペシャル「日本人は何故戦争へと向かっていったか 第三回・熱狂はこうして作られた」を参照)(注2)
ここに私は、広告主を忖度しなくてはならない大新聞の不自由さを見た。社が大きくなれば大きくなるほど、養わなければならない社員が増え、保守的にならざるを得ないのではないか。フランス文学者の桑原武夫は広告を新聞の下半身と称し、広告を見れば新聞社の実情が分かると述べている。この言説は的を射たもので、実際に緒方は、思想団体や軍部が新聞社を脅すために広告主を恐喝していたと当時を振り返っている。
 
l  言論においての「現代版、緒方構想」
私は上述したような現実に鑑み、言論界に必要なのは「週刊ペースで発行され、全国規模で流通しているクオリティ・ペーパー」の存在であると考えた。
文藝春秋中央公論などの雑誌媒体は月刊ペースで発行されるので多くの情報を網羅するには不向きである。また、地方紙には利点も多くあるが、読者が限られてしまうという欠点がある。
だからこそ、広告主に忖度することなく、少ない資本で小回りのきくクオリティ・ペーパーが、情報が溢れかえり、憶測が公然と語られてしまう現代においてそのブレーキ役になることを私は切望すると同時に、いずれは自分が作りたいと考え構想を練っている。
デジタル化が進み、ペーパーレスの時代が到来しようとしている現代にあって、このような考えは旧時代的なものであるという批判もあるだろう。
だが、私は新聞産業が衰退する時代だからこそクオリティ・ペーパーを作るという構想は意味を持つと考えている。大新聞は、前項でも触れたが、広告に左右されるという弱点があり、加えて、多数の社員を抱えている。逆説的に捉えるならば、こんな時代だからこそ世界情勢や不況に影響されにくい小回りのきく情報媒体が必要なのだ。また、ネットニュースが普及して情報伝達の速度は格段に上がり、誰もが手軽に読める利便性も向上したが、同時に信憑性や情報の深さは損なわれ、受け手のリテラシーが不可欠になった。日毎に消費されていく情報を週刊ペースでまとめて紙面で届けるというあり方は決して時代に逆行したものではないと感じる。そして、このような取り組みこそが、夥しい情報が交錯する現代社会において、デマ、即ち流言蜚語を抑制し、正しい情報を伝達するための一翼を担うことに繋がるのではないかと私は考えている。
 
l  むすびに
ここまで、メディア側の見地に立って健全な言論のあり方を考察してきたが、最後に、それらの考察を通して、受け手という現在の私自身の立場から見えてきたものを挙げたい。
まず、言論統制を行った政府、それらに屈した言論、信じることしかできなかった当時の国民を責めることはあまりにも容易い。しかし、我々に求められているのは「誰が悪かったか」という犯人探しをすることではなく、如何にすれば健全な言論を保つことができるかという思索なのではないかと感じる。国民は知りたいことを直接当事者に聞きに行くという行為をメディアに任せている。即ち、自らの知る権利をメディアに委託しているという側面がある。然るに、メディアが国民の知る権利を守るという責任を果すために努めると同時に、国民はメディアがどのような報道を行っているか監視する必要があるのだ。報道機関の不祥事などを受けて、もう新聞を読まない、ニュースを見ないと高を括ってしまえば総てが片付くが、その先にあるのは、誰もが情報に無頓着な、ある意味での「言論逼塞の時代」なのではないだろうか。国民が知るべきことと真摯に向き合う姿勢こそが、世に蔓延る根拠の無い誹謗中傷や流言蜚語を正していく原動力になると、私は確信するものである。
 
l  〈注〉
(1)石井光次郎『回想八十八年』、カルチャー出版、1976年
(2)NHKスペシャル『日本人は何故戦争へと向かっていったか』、第3回「“熱狂“はこうして作られた」、2011年2月27日放送
l  〈参考文献〉
l  〈参考にした書籍〉(※参考資料が多いので、書籍、論文記事、音声資料等で分類し記載する形式を取る。)
(1)「評伝 緒方竹虎 激動の昭和を生きた保守政治家」 三好徹、岩波現代文庫、1988年
(2)「復刻版 緒方竹虎修猷館高校、修猷通信編、2012年
(3)「緒方竹虎(人物叢書)」 栗田直樹、吉川弘文館、2001年
(4)「緒方竹虎 リベラルを貫く」 渡辺行男、弦書房、2006年
(5)「人間 緒方竹虎高宮太平、四季社、1958年
(6)「回想の緒方竹虎」 桜井清、東京と福岡社、1956年
(7)「緒方竹虎 一業一人伝」 嘉治隆一、時事通信社、1962年
(8)「新聞 資本と経営の昭和史 朝日新聞筆政・緒方竹虎の苦悩」 今西光男、朝日選書、2007年
(9)「占領期の朝日新聞と戦争責任 村山長挙と緒方竹虎」 今西光男、朝日選書、2008年
(10)「緒方竹虎(1963年)」  緒方竹虎伝記刊行会、朝日新聞社、1963年
(11)「緒方竹虎とCIA アメリカ公文書が語る保守政治家の実像」吉田則昭、平凡社新書、2012年
(12)「遙かなる昭和―父・緒方竹虎と私」緒方四十郎朝日新聞社、2005年
(13)「人間 中野正剛緒方竹虎、中公文庫、1988年
(14)「一軍人の生涯―提督・米内光政」緒方竹虎、光和堂、1983年
(15)「朝日常識講座第4巻 議会の話」緒方竹虎朝日新聞社、1929年
(16)「戦後政治家論」阿部真之助、文春学藝ライブラリー、2016年
(17)「緒方竹虎(情報組織の主催者)」 栗田直樹、吉川弘文館、1996年
(18)「そして、メディアは日本を戦争に導いた」保阪正康半藤一利、文春文庫、2016年
(19)「陸軍良識派の研究」保阪正康光人社NF文庫、2013年
(20)「昭和史の論点」坂本多加雄秦郁彦半藤一利保阪正康、文春新書、2000年
(21)「世論 上・下巻」W・リップマン、岩波文庫、1987年
(22)「流言のメディア史」佐藤卓己岩波新書、2019年
(23)「戦う石橋湛山半藤一利ちくま文庫、2019年
l  〈記事・論文〉
(1)緒方竹虎;竹山博士「竹山博士心理対談 (20) 政界のダークホース緖方竹虎」、旬刊読売、1952年、p38~42
(2)宮前淳「悲運の巨星・緒方竹虎(1)~(3)」月刊自由民主、2000年
(3)鈴木茂三郎「故緒方竹虎鈴木茂三郎君」衆議院追悼演説集:第1回、1983年、p98
(4)国士舘大学法学部『証人緒方竹虎―もと朝日新聞副社長、小磯内閣の情報局総裁で、戦後は連合国軍最高司令官の命に基づき逮捕され、本裁判の検察団により2度尋問を受け、証言時、戦争犯罪容疑者として自宅監禁中―、検察主張立証II局面「戦争輿論の形成」第2部「宣伝による戦争準備」の検察側立証として、「満州事変から大東亜(太平洋)戦争期間中の新聞検閲、陸軍による特定記事報道の要求」について、宣誓供述書によって証言する』極東国際軍事裁判審判要録 第1巻、監修 松元直歳、原書房、p232
(5)国士舘大学法学部『‪[検察側証人緒方竹虎に対する宣誓供述書による検察側直接尋問] ‪[弁護人ファーネス大尉及び弁護人クライマン大尉による検察側証人緒方竹虎に対する反対尋問]』極東国際軍事裁判審理要録 第1巻、監修 松元直歳、原書房、2013年、p233
(6)戸松慶議「緒方竹虎先生と私」総合文化2(3)、1956年、p60~72
(7)木原健太郎, 本多秀輝「軍靴の中を生きた言論人—緒方竹虎」公評37(2)、2000年、p98~105
(8)緒方竹虎「言論逼塞時代の回想」中央公論67(1)(756);新年特大号、1952年、p106~111
(9)緒方竹虎;風見章;松本重治「政治と言論(鼎談)」改造32(10)、1951年、p52~63
(10)緒方竹虎「感屑」東方時論8(2)、1923年、p89~92
(11)緒方竹虎「人生体験打ち明け話」学苑13(4)、1952年、p78~81
(12)緒方竹虎「小泉又さんの家」美しい暮らしの手帖 S26(6)(14)、1951年、p112~113
(13)緒方竹虎「よき古き若き時代」文藝春秋31(18)、1953年、p30~33
(14)有竹修二「緒方竹虎石橋湛山」財政経済弘報社、1952年、p8~9
(15)情報局関係極秘資料第六巻 「思想戦と新聞」、萩野富士夫編・解題、不二出版、2003年
(16)木舎幾三郎「往来新聞・緒方竹虎氏の思い出」政界往来22(3)、1956年p202~203
(17)伊藤金次郎「緒方竹虎論」政界往来20(4)、1954年、p134~142
(18)緒方竹虎他「新聞今昔(対談)」政界往来18(1)、1952年、p28~41
(19)人物往来「特集二 日本の船頭十人 緒方竹虎/野村秀雄」人物往来3(6)、1954年、p28~33
(20)緒方竹虎「現代新聞論」総合ジャーナリズム講座 第2巻、日本図書センター、2004年
(21)長谷川峻「生きている緒方竹虎」政界往来26(4)、1960年、p121~129
(22)安藤楢六「緒方竹虎さんの思い出」文藝春秋49(1)、1971年、p75~76
(23)笠信太郎「新聞を語る緒方竹虎さん」笠信太郎全集第5巻(私の人間像・日本像)、朝日新聞社、1969年、p387
(24)東久邇稔彦緒方竹虎の国際情勢分析」東久邇日記:日本激動期の秘録、徳間書店、1968年、p27
(25)朝日新聞社緒方竹虎と大西斎〈沈勇の将器、殉情の詩人〉」祈り祈りの人 第2、朝日新聞社、1967年、p169
(26)有竹修二「緒方竹虎の素描」新文明6(4)、1956年、p58
(27)緒方竹虎「叛乱将校との対決—二・二六事件の血に狂つた叛乱軍の襲撃を受けた朝日新聞主筆としての對決」文藝春秋33(20)、1955年、p208~209
(28)緒方竹虎国賊とよばれた頃」丸8(2)、潮書房光人新社、1955年、p131~132
(29)緒方竹虎「暗殺・抵抗・挂冠」ダイアモンド:経済雑誌40(9) 臨時増刊号、1952年、p10~15
(30)嘉治隆一「新聞人ありき—資本と編集の分離を唱え天下の人材を集めてその主張を貫徹させた最後の大記者緒方竹虎文藝春秋38(11)、1960年、p182~196
(31)「言いたい事と言わねばならぬ事と」、桐生悠々
https://www.aozora.gr.jp/cards/000535/files/3612_20811.html
(32)「関東防空大演習を嗤う」、桐生悠々
https://www.aozora.gr.jp/cards/000535/files/4621_15669.html
(33)朝日新聞社編集委員の不適切なツイート、おわびします。」2020年3月14日
https://www.google.co.jp/amp/s/www.asahi.com/amp/articles/ASN3G6JXPN3GPLZU002.html
(34)東京大空襲・戦災資料センター「東京大空襲とは」
https://tokyo-sensai.net/about/tokyoraids/
l  〈音声・映像資料〉
(1)肉声できく昭和の証言4  NHKサービスセンター、1990年
(2)NHKスペシャル『日本人は何故戦争へと向かっていったか』
第3回「熱狂はこうして作られた」2011年2月27日放送
(3)「いだてん・第34回・226NHK、2019年9月8日放送
(4)「東京裁判」 監督 小林正樹、2019年8月3日公開
 

派閥抗争史は必要悪の歴史である。(前編)

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「個人の間では法律や契約書や協定が信義を守るのに役立つ。

しかし権力者の間で信義が守られるのは力によってのみである。」マキャベリ

 

前回の記事でも若干触れたが、政党の中での派閥というものは「財閥解体」を契機に生まれたものである(藩閥はこの際含めないこととする)

戦前、政友会は三井から、民政党は三菱から献金を受けていた。その金額は数億円規模にのぼったという。文献を紐解くと、桂太郎内閣の時代には既に民政党の政治資金を三菱が工面していたことが分かるが、三菱の女婿である加藤高明がその党首に就任してからは、こうした傾向が更に顕著になり、反対に三菱と対を成す三井は二大政党の片割れである政友会を支持するに至ったという流れが読み取れる。

 

しかし、戦後、GHQが発令した「降伏後における米国の初期の対日方針」が元となり、財閥が解体され、企業の数自体が増大すると、陣笠議員達はこれまでのように党首から自動的に降りてくる金を待つのではなく「誰が一番羽振りがいいか」を見極めねばならなくなった。かくの如くして「羽振りのいい親分」の元に人は集まり、親分は派閥の領袖に、陣笠議員達は派閥の構成員へと姿を変えたのである。

 

例えば、こんな話がある。

どの派閥でも、選挙前と正月は必ず資金を陣笠議員ひとりひとりに回すのは有名だが、加えて、政界には「お中元」という慣習があり、石橋湛山が領袖をつとめた石橋派は五本(五十万円)を渡すのが相場であったのにもかかわらず、一本(十万円)しか渡さなかったのが後の同派の衰退に繋がったという逸話である。というのも、「お中元」の金額を知った石橋派の石田博英がこれでは派の結束が弱まると他の議員に親分である石橋が配った金額を超える金をばら撒いたことで、石橋との関係が悪化し(かねてより石橋夫人との不仲は噂されていた)分断を招いた経緯があるというのだ。

 

このように、派閥の強さや結束は陣笠議員に回した資金の額面で決まってしまうところが大きい。

 

しかし、その一方で、藤山愛一郎のように自身の資産を全て使い果たし、子分を養って尚、総裁選では離反者を出し、ついには総理総裁になるという悲願を遂げることが叶わなかった政治家も存在している。

 

このように「金がなくばお話にもならない」が、「金だけあっても上手くいくわけではない」極めて難解な政治の駆け引きをこなし、派閥の領袖となることが出来る政治家に備わる資質を、渡邉恒雄は六つに分類している。

  1. 社会の人心の動きをすばやくとらえる感性のある者(米共和党マッキンレー大統領、民主党ウィルソン大統領)
  2. 人間的魅力を備え社会各層と接するのに巧みな者(フランクリン・ルーズベルト大統領)
  3. 他の政治集団と巧みに交渉し、その敵意を柔げ得る者(英国自由党ロイド・ジョージ
  4. 文章、弁論、態度などにおいて劇的表現の巧みな者(英国自由党グラッドストン
  5. 公式、スローガン、政策、条約、イデオロギーなどを創造する才能のある者(ニュー・ディールのルーズベルト、ドイツ人民党首シュトレーゼマン)
  6. 決断力と勇気に富む者(英国保守党チャーチル

この中で私が最も重要視しているのは③である。

ロイド・ジョージは専門的な知識こそ欠けていたが、それを補って余りあるほど人を使うのが上手かった。日本の政治家に例えるならば田中角栄が近いかもしれない(田中先生は数多くの議員立法を成立させており、専門的な知識も無論備わっていたが)

ただ、田中派の「白でも黒でもないグレーゾーンの人間を敵に回さないことを重んじる」という考え方は、ロイド・ジョージのように敵を極力作らない政治工作の上手かった政治家と重なる部分も多いと感じるのだ。敵を作らないということは、政治において最大の武器になる。いくら演説が上手くても潮目を読めても反発が多ければ一国の総理に成り上がることは極めて難しいからだ。

しかし、③どころか、これらを一つも備えずして長期政権を築いた政治家もいることを忘れてはならない。かの有名な吉田茂である。

ポピュリズムに背を向け、世論を顧みず(当人も最初は国民に好かれたかったと言っていたものの…)国会答弁は閣僚に任せ、やっと総裁のお出ましだと思えば失言、他派閥や他党との交渉も気性ゆえに難航、革新的なスローガンを打ち出したわけでもない。ここまで言うと私がまるで吉田茂を嫌っているように思われるかもしれないが、決してそういうわけではない。彼は、幣原喜重郎のように勤勉で英語力があるわけでも、広田弘毅のように穏やかな人柄で信頼を得られるタイプでもなかったが、官僚然とした「縦割り」の組織に固執して他を蹴落とすことのない極めて優秀な外交官だった。

これは非常に重要なことで、例えば戦時中の外務省は笠信太郎(朝日社員)と蒋介石南京政府との間で行われていた和平工作を巡る情報交換を間で遮り、南京政府から送られてきた文書を笠信太郎に回さぬまま外務省内部の金庫に放り込んで、三十年もの間、隠蔽していた。ここには「絶対に外務省を通さない外交は認めない」という了見の狭さが見え隠れしているように思うのだが、これらの隠蔽工作を指示していた重光葵も、日記を紐解けば家族思いの誠実な人柄で職務には勤勉に向き合い、近衛文麿を戦犯指名から外すように早いうちからGHQと掛け合うような先見の明もあった優秀な人材であり、個人の能力と官僚の言わば「悪性」を持つか持たぬかという話は全くの別物であることが分かる。

つまり、吉田茂という人間は、決して褒められた外交官でも政治家でもなかったかもしれないが、戦後という今までの凝り固まった慣習が崩壊した世にあっては「英雄」となるに相応しい性質を備えていたのである。このように「時代の局面」においては、先述したような派閥の領袖としての素養は必要とされないこともあるということを踏まえた上で読み進めて頂けると有難い。

 

まずは、戦後の派閥を大きく分類していこうと思う。尚、今回の記事では戦後~1960年までの派閥と現在の派閥にのみ触れることとする。

 

滅亡した派閥

  1. 広川派(広川弘禅)
  2. 石井派(緒方竹虎石井光次郎
  3. 石橋派(石橋湛山
  4. 大麻派(大麻唯男
  5. 芦田派(芦田均
  6. 三木・松村派(三木武夫松村謙三
  7. 大野派(大野伴睦
  8. 北村派(北村徳太郎)

 

未だに残っていると言えそうな派閥

  1. 池田派→岸田派(宏池会谷垣グループ(有隣会)麻生派志公会
  2. 佐藤派→竹下派(旧平成研)
  3. 河野派→石原派(近未来政治研究会
  4. 岸派(元はと言うと鳩山派でもある)→細田派(清和会)

 

間はかなり割愛しているので悪しからずである。

というか、誰か体力のないダメダメな黒幕ちゃんに代わって補足してほしい。

 

さて、ここからは①~⑧までの滅亡した派閥、そして①~④までの存続している派閥、計12個の派閥の成り立ちだけを一つ一つ簡単に解説していく。

 

夢見るタヌキ(広川派)

このひとを語る上でまず前提として言っておかなければならないのは、彼が非常にナイーブな性格の持ち主であった、ということだ。

巷では永田町のたぬき、朗報居士などと呼ばれた彼のことを誤解している人は多い。

確かに、吉田茂に反旗を翻して離党し寝返った彼はある種の博打打ちのように私達の目に映るかもしれない。しかし、その彼が寝返った理由こそが非常に繊細で勤勉な内面を遺憾無く表していると言っても過言ではないと私は思っている。

当時、吉田のバンキシャから鳩山邸に入り浸るようになり情報収集に邁進していた渡邉恒雄は、広川弘禅が寝返った要因のひとつとして緒方竹虎の政界進出を挙げている。

緒方は、水曜クラブの項で詳細な説明をするので、ここではやや割愛するが、吉田の政治顧問であった古島一雄の寵愛を受けており、所謂湯河原党とも呼ばれた有力者らの支援を受けていた。吉田もこの湯河原に出入りしていた政治家のひとりで、古島一雄から「緒方を頼む」と言われたこと、また、小磯内閣時代に多少の面識があったこと、実際に会ってみてそれなりに意気投合したこと(山浦貫一談)などを理由に「副総裁兼官房長官」というポストを以て緒方を政界に招き入れた。これを面白く思わなかった人々がいることは想像に難くない。それは、吉田が「保安隊のトップ」という役職を緒方に与えようとしたときに、保利茂らと共に反対していた広川弘禅であり、また、鳩山を担いでいた大野伴睦三木武吉でもあった(後者とは雪解けしている)

広川弘禅は、繰り返すようだがナイーブな性格の持ち主である。自分よりも重んじられる人間が出てきたことによって「自分の立ち位置」が揺らぐことを予期し泡を食った。吉田の寵が薄らぐことを恐れ、鳩山に寝返り、そしてその身を滅ぼした。

しかし、ここで特筆しておかねばならないのは、広川が鳩山に寝返った理由が、三木武吉の策略とされているのは誤りである、ということである。

世間では、三木が吉田から遠ざかっていた広川を唆し、鳩山陣営に引き入れたというように伝えられているが、事実は微妙に異なる。

と、いうのも、三木が「誘った」というよりは、広川側が「持ちかけた」ような側面があったからである。実際に、広川の寝返りによって吉田陣営に揺さぶりをかけたいのなら、三木は積極的に「談合」の情報を流すはずだが、何故か情報は広川陣営の方から吉田に伝わっている(たしか「益谷秀次」に詳細が載っていたはずである)

つまり、広川が、吉田の寵が薄れて、しかし意外と真面目な性格なので党内で大番狂わせのようなことも出来ず、結局鳩山陣営に泣きついた__ようにも捉えることができるのだ。

かくして、吉田陣営から出奔した広川に着いてきた陣笠議員は思うよりも少なく、加えて、広川の後援会には吉田支持者が多かったこともあって、次の選挙で落選し、広川派はここに潰えた。

 

放課後の「紳士クラブ」(水曜倶楽部)

水曜倶楽部は、まさにその名の通りクラブ活動のような緩さのある派閥である。そもそもの立ち上げ人とされている緒方竹虎自身に派閥を持っている、という自覚がなかったからでもあるが、困っている子分がいれば金銭的な面倒は見るが、他の派閥のように定期的に何本か札束をばら撒くようなことはなく、毎週水曜日に集まってのんびり話し合う正しく放課後の部活動のような集団であった。

実際に、CIA日本人ファイルの中で緒方は、「金の集め方が紳士的過ぎる」と批判されており、いくつかポストは持っているが、積極的に政局に介入していく意思は欠けていたことが分かる。

そんな掛け持ち(兼部)も許可されて、会合も多くない緩い水曜倶楽部が散り散りになった要因は、岸信介の策略である。

緒方の死後、水曜倶楽部を継承したのは、同郷であり朝日新聞時代からの盟友である石井光次郎だった。石井は、仕事はそつなく熟すが、あまり権力欲がなく、しかし石橋湛山を総裁にするために力を貸していたので、岸にとっては邪魔な存在であったのだろう。まず、石井のポストを奪い、流石に怒った石井が水曜倶楽部のメンバーを集めて囲い込みをしようとしたところで「兼部」している議員を中心に内部から揺さぶりをかけて弱体化させた。政治の世界とは総じてえげつないものだが、これが日常的に行われていると思うと、少しだけ虚しい気持ちになる。

 

潔癖、或いは策略家(石橋派)

石橋湛山という政治家は意外にも難解である。リベラリストだとか、愛妻家だとか、清廉な政治家だとか言われているが、そうでない部分も持ち合わせているからだ。それだけの人間が総理総裁になるということは殆ど有り得ないので別段不思議なことではないのだが。上述した石田博英離反事件以外にもこんな話が残っている。まず、石橋が戦時中に憲兵に捕まらなかったのは陸軍内に石橋の支持者がいたからだという話(戦う石橋湛山参照)、そして、派閥を「政治団体」にしたのは石橋であるという話である。私は後者の話を目にしたとき、今まである意味で石橋湛山という政治家を見くびっていたことを反省した。彼にもきちんとした政治家的な資質が備わっていたのを悟ったからである。当時、政治献金は所得と見なされ所得税を納めねばならないことになっていた。少額であれば帳簿も誤魔化せるだろうが、額が増えればそういうわけにもいかない。派閥を政治団体にしてしまい、これらの税収から逃れられるという策略は非常に良くできていると言っても過言ではないだろう。派閥が弱体化した原因について私が承知していることは上述した通りなので割愛するが、石橋のこういった二面性はとても興味深いと思う。

 

義理と人情とやせがまん(大野派)

大野派が他の派閥と異なっている点は、再側近が議員ではないということだ。中川一郎は途中で選挙に出るが、渡邉恒雄は一介の政治記者である。しかし、これは、議員になったから取り敢えず何処かの派閥に属していなければならないとか、派閥の恩恵に肖ってポストが欲しいだとか、そういう利害打算の少ない人物が、陣笠議員よりも働いていたというようにも捉えられるのである。中川一郎大野伴睦とお妾さん、奥さんの間に立って気を使いまくって走り回るなど極めて私的な部分にまで介入していたし、渡邉恒雄讀賣以外の社から来た記者に対しても均等に情報を流し、その代わり目立ったことをした場合はどうなるか分かってるね?と言った具合に新聞、即ち当時の世論の主流を以て大野派を守っていた。大野はどんなに偉い客人が来ていても、「渡邉が来た」と聞くとすぐに帰して二人きりで会うほどに全幅の信頼を寄せ、そういった深い関係性は渡邉の息子の名前が「睦(伴睦から取って)」であることからもうかがえる。そんな大野派も、岸信介の「協力してくれたら総理総裁にしてやる」という誘い文句に騙され、その後も大野が副総裁になるなど一定の力は保ったものの、大野自身の死を切っ掛けに派閥が二つに割れることになってしまった。(因みに大野派から出ていった議員は渡邉の工作で暫く資金繰りに苦労したらしい)

 

ございましゅる寝業師の本懐(大麻派)

私が個人的に大麻に興味を持ったのは「町田忠治のかつての側近」という肩書きがきっかけであった。町田の側近であったのにも関わらず、戦時中は翼賛会の体制を強めることに尽力し、仕舞いには自らの元の親分である町田までもを追い落とそうとしているのはとても面白い。このように戦時中は軍部にも従順な姿勢をとっていた大麻だが、戦後はまさかの鳩山一郎につくことになる。鳩山・重光会談をお膳立てしたのが大麻であるのは世間に知られているところであるし、これまた鳩山と近しかった渡邉恒雄の話によると、本当は唾を吐きかけてやりたくなるくらいの相手であったが、話すと何故か気があったらしく鳩山ー大麻間の関係はそれなりに良かったらしい。しかし、その大麻も、大野・三木に主導権を取られ、岸信介の総裁選擁立に失敗し、失意の中でこの世を去った。大麻の死を以て大麻派は実質的には消滅した。

 

政治嫌いな政治屋(北村派)

さて、北村派というのはまた特殊な位置づけの派閥である。というのも、元の主導者は犬養健であり、犬養が公職追放になったことで「年功序列」のような基準で北村をトップに据えることが決まっているなど適当なところがあるように見えて「熱い」性質があるからだ。北村派は芦田を擁立しており、幣原とは完全に対立していた。どのくらい対立していたかと言うと首相官邸に押しかけて自らデモを起こすレベルである。このような苛烈な行動から北村派は「革新派青年将校団」と呼ばれた。芦田が日の目を見てからは若干力を強めたが、昭電事件移行は低迷。しかもその後、かつての同派の領袖であった犬養とも争っている。結果としては、国民民主党内部で起こった総裁選を巡る動乱の中で、北村徳太郎か三木武夫か、総裁候補を絞ることが出来ずに犬養に敗れている。(この後長く三木と北村は競り合うことになる)しかし、不思議なことに北村派には底知れぬエネルギーがある。まず、河野一郎に接近し河野派と提携した後、「春秋会」を創設、自らの派閥に足りぬ部分を補おうとする。次に、大野伴睦との距離も縮め、党人派連合を作り官僚派を打ち倒す計画を立てる、など「寝業」を超える「情熱」を持っている派閥でもあった。個人的に、今の保守党に必要なものが北村派の中には存在していたのではないかと思っている。

 

クリーンであるがゆえの偏屈(三木派)

三木はクリーンだなんだと言われるが、それでいて「それだけではない」人物である。例えば、社会党の右派に良い顔をしたり、今度は翼賛系の政治家とも手を組もうとしたり、非常に興味深い動きをしている。また、インテリじみた保守政治家でありながら「金集め」や「寝業」を得意とし、国協党や国民民主党を点々としたことからも小党に属しながらどうすれば政治的な影響力を持てるか、といった画策をするのが上手い政治家でもあった。しかし、このインテリだか党人派だか分からない立ち回りで損をしていた側面もあると思う。特に、「石井光次郎日記」の中では三木がアイツはダメ、コイツが総理になったら俺は辞める、と言った愚痴をこぼすので調停が難航したといった一文も存在するなど、インテリであるが故の潔癖さと党人派であるが故の執念深さが同時に発揮されてしまっている部分も垣間見える。(無論三木側にも言い分はあるだろうが)

個人的に一番好きな三木派のエピソードは、トーストにミルクで朝食会を開いたあと、学者を呼んで勉強会を開いていた話である。(渡邉恒雄談)出来ることならその一室の壁か何かになって観察してみたい。それほど三木派というのは良くも悪くも微妙に訳が分からない派閥なのである。

 

総裁経験者は何を思うか(芦田派)

芦田の不運は「総理総裁になってしまったこと」だった。議長就任の話が出た折は、総裁経験者が議長に身を落とすなど、といった悪評が飛び交い、かえってかつての輝かしいはずの経歴が足枷となって自由に動けなくなってしまったのである。加えて、昭電事件の古傷や幣原内閣に入閣して鳩山一派を裏切る形になってしまったこと、しかし、その後に当の幣原とも仲違いしてしまったことなどが要因で、私が知る限り50年代中盤~後半には既に芦田派は弱体化の一途を辿っている。ある意味彼は、大野伴睦のような懐の深さや鳩山一郎のような底知れなさ、三木武吉のような肚の据わりよう、或いは石橋湛山のような知性と言った「ずば抜けて秀でた魅力」を持たなかったが故に歴史に埋もれてしまった悲劇の人物とも言えるのではないだろうか。昭和天皇に対する心配りや、戦時中の軍部に対する厳しい姿勢からも、芦田が魅力のない政治家だとは思わないが、ある意味猛者ぞろいの政界の中で埋もれてしまったことは非常に残念である。

 

前編の総括

さて、ここまでは「滅亡した派閥」を簡単に紹介してきた。後編では、現存している派閥、そして藤山派や一万田派、賀屋派などの所謂「新興派閥」について解説していこうと思う。

 

滅亡した派閥を見て、弱いものは滅ぶと思うか、愚かなものが身を滅ぼしたと思うか、それとも良い人から先に死ぬと思うかは、ここまでお付き合い頂いた皆様に委ねたい。

 

それではまた後編でお会い致しましょう。

松の茶屋で逢いましょう。

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一月二十八日

 

「それで緒方君は、僕が会うと言ってどんな反応をしていた。」

「緒方さんは、吉田さんと会えると聞いてたいへん喜んでいました。」

「そうか………。」

 

すべてはこの日を以て決した。

その日、吉田は喧嘩別れして以来はじめて緒方と正面から向き合った。緒方は既にこの世の人ではなくなっていた。益谷秀次衆院議長)が緒方の遺体に追い縋らんばかりの様相で男泣きに泣いている。「緒方君にひと花咲かせてほしかった」悲痛な声をあげる益谷の向こう側には、岸信介石井光次郎、松野鶴平らが神妙な面持ちで並んでいた。

 

吉田と緒方が和解するはずの日だった。

長らく袂を分かっていた二人は、緒方の熱心な働きかけと、仲介役をつとめた林屋亀次郎の機転によって和解をする運びになっていたのである。

弔問に訪れた林屋はひとりでに俯いた。あんまりな結末だった。

 

一月二十六日

 

緒方は林屋亀次郎に丁重に頭を下げた。

「頼む、吉田さんと和解できるように一役買ってくれないか。」

緒方の横には、後にNHK会長に就任する”緒方派の軍師”の異名をとった野村秀雄が座っている。

林屋は、緒方の事情もよく知っていたし、吉田とも懇意であったので適任ではあったが、当人は乗り気でない。最初は渋っていた林屋だったが、緒方の「麻生(太賀吉)君に頼んでも駄目だった」の一言を聞いて、仲介役になり得る人間が自分しか残っていないことを悟り、万策尽きた緒方を救うべく大磯に向かうことを決心した。

 

同日

 

「どうせ君もまた緒方君のことで来たんだろう。そのことなら駄目だ。」

吉田は先手を打つように林屋を睨んだ。言葉の調子も険しく、取り付く島はありそうにない。それでも、このまま何もせずに帰っては子供のおつかい同様になってしまう。林屋は一計を案じ、かねてより慣れない政界に出た吉田を支えてきた”政治顧問”古島一雄の名を口にした。

「吉田さんは古島さんに、緒方君のことをよろしく面倒を見てやってくれと頼まれたはずでしょう。ここは、今は亡き古島さんの顔を立てると思って、どうか緒方君に力を貸してやってくれませんか。」

しばらく黙り込んで考えていた吉田は、やがて徐に面をあげて、「それほど言うのなら緒方に会ってやってもよい」と了承した。

 

同日

 

林屋と緒方は手を取り合って喜んだ。緒方は林屋の手をかたく握って何度も「ありがとう」と繰り返す。林屋もそんな緒方の様子を見て、二、三度頷いた。

 

日取りは早い方が良いということで、和解の日程は「一月二十八日」場所は、緒方行きつけの「松の茶屋」と決まった。

 

一月二十七日(?)

 

吉田と緒方を和解させるために動いていたのは、林屋だけではなかった。

小学校時代からの付き合いで、緒方派の金庫番もつとめた緒方の無二の親友、真藤慎太郎もまた二人の間を取り持つために奔走していた。

緒方当人には伝えず、飽くまで何があっても自分の責任にしようとするほどの献身ぶりであった。

 

真藤が「緒方君をどうか支援してやってくれませんか。」と切り出すと、吉田は「緒方君はどうも生ぬるい。ああいう煮え切らない態度では総理総裁にはなれないよ。来年の総裁選は僕が出て緒方を推してやろう。」と緒方支持の方針を口にしたという。

 

一月二十八日

 

吉田と林屋は揃って緒方邸に弔問に訪れた。

「緒方さんは吉田さんに会えると聞いてよろこんでいました。」

林屋の言葉を聞いて、吉田もまた喜んだ。

 

吉田は、許さないと決めたら絶対に許さない上に、嫌いな人間に対しては何処までも冷酷になれる政治家向きの特性を持っている。

その吉田が「緒方に会ってやってもいい」と口にしたということは、その段階で「許した」ということでもあったのだ。

 

遅れて駆けつけた真藤の「緒方さんの墓標を書いてくれませんか。」という申し出を吉田は快諾し、筆を手にした吉田の写真は翌日の朝刊に掲載された。

 

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今でも、吉田が書いた「緒方竹虎之墓」の墓標のもとで、緒方は眠っている。

 

石破茂は裏切り者なのか。

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はじめに

野党時代、石破茂は英雄として祭り上げられていた。総裁選に出馬すると、今度はネガティブキャンペーンが行われ一気に今までついていた一部の保守層が離れていった。与党に返り咲き、安倍政権が誕生してからは、「後ろから撃つ」「足を引っ張る」存在として批判されることが増えていった。

この十数年間、ひたすら私が見守ってきたのは、政治家・石破茂であり、また、人間・石破茂でもあったと思う。次第に柔らかくなっていく語り口や、批判や誹謗中傷を甘んじて受け入れる姿、失言をして反省している様子も、これまでは「何も言わずに」見守ってきた。

針を飲むような気持ちで過ごしてきた毎日の中で、わたしが肚の底に溜めてきた「お気持ち」なるものを少しだけ、この場を借りて書き残してみようかと思う。

 

一番になれない幼少時代

石破茂は幼い頃から「知事の息子」として「常に一番であること」を求められてきた。

鳥取大学学芸部附属小学校に入学すると、一年生であるにも関わらず、学業成績がトップでなければならないプレッシャーに苛まれることになる。

寝る前には、本当は「冒険王」や「少年サンデー」が読みたいと思っていても、「偉人伝」や「本当にあった世界の美しい話」を欠かさず朗読しなければならない。

授業参観の発表で間違えようものなら、「私が恥ずかしいではないですか!」と母親にこっぴどく叱られる。

毎月ある四教科のテストの順位は父兄に伝えられ、最初は「三十八人中十六番」という鳴かず飛ばずの成績だったことを知った石破の母親は激高し、その後、必死に勉強して一月後に五番目、三ヶ月後に二番目まで順位を上げるも、結局一番にはなれなかった。

 

苦難の日々はその後も続く。鳥取大学附属中学に進学する際の学力試験で一番で入学するようにと、母親にきつく言いつけられたのだ。

「また一番ですか」という不満を抱いたと、本人は当時を振り返っているが、「戦艦大和のプラモデルを買ってもらえる」というご褒美のために、このときも必死で勉強に励んだという。

____しかし、結果は四番目と奮わなかった。

流石に息子を可哀想に思った母親がプラモデルを買ってくれたらしいが、これらの経験は石破茂という人間の人格形成に多大な影響を及ぼしていると思う。総裁選に何度落ちても「そんなに物事が上手くいくはずがない」と動じることなく、ひねくれることもなく、自然体でいられるのは、彼の人生が序盤から「上手くいかないこと」の連続であったからなのではないだろうか。

 

知事の息子という呪縛

「お父さんが偉いのであって、お前が偉いのではない!出ていけ!お前なんかうちの子供じゃない!」

小学校二年生のとき、石破は、知事公邸を訪れた県庁職員に対してぞんざいな口を利いたという理由で、母の怒りを買い、寒空の下、家から追い出された。

父である石破二朗もまた厳格な人間で、人の目がある場所に息子と出かけると「知事の息子」として優遇されることが教育上良くないと考え、家族で外出する際の行き先にも海や山を選ぶことが多かったという。

 

加えて、石破が中学に入学したのは「七十年安保」を目前にした時代だった。

権力に反抗し、髪を伸ばす「反体制」が「格好のよいもの」とされた時代に「知事の息子」の居場所などというものが存在するはずがない。

石破は、生徒会長選挙、生徒会副会長選挙に立て続けに落選し、小学校時代からの友人にも徐々に距離を置かれていく。

そんな中、鳥取駅前で大きな火事が起こり、「石破の父親が火をつけたんだろう」と同級生に詰られたことを切っ掛けに、いよいよもって石破は、ここでは生きていけないという思いを強めていくことになった。

 

上京後の悲痛な日々

そんなわけで石破は鳥取を出て上京、一人暮らしをしながら慶應義塾高校に通うことになる。

誰も「石破」という苗字を知らない、それどころか誰も「石破」の読み方を知らない環境は痛快だった。

しかし、生粋の都会っ子が集まった校内に、またもや居場所を見出すことは難しく、教室の片隅で「人と付き合う方法」などという本を読む日々が続いたそうだ。

次第に、一浪してもいいから鳥取西高校に入り直したいとの想いが強くなっていき、強烈なホームシックで夜になると自然に東京駅へと足が向く。山陰行きの特急出雲を見送り、石川啄木の『故郷の 訛り懐かし 停車場の 人ごみの中に そを聞きに行く』を思い出しながら、「あれに乗れば帰れるのになあ」という何とも言えない気持ちを抱えて家に帰る。そんなことを三か月近く繰り返していたらしい。

しかし、夏休みに入る頃には環境にも慣れ、母親の「お前は運動神経が良くないが、みんな経験のないゴルフならそれなりになるのでは」というすすめもあって、ゴルフに入部した。

豊かな時代ではないので打ちっぱなしにも頻繁には行けなかったし、一生懸命練習しても上手くはならなかったが、最初は部内でビリだった長距離走の順位が二番目になったことで、ゴルフではなく体力づくりに熱中していく。妙な高校生活である。

 

挫折と恩人・竹下登橋本龍太郎

中学時代「このまま鳥取西高校に残って勉強すれば東大に入れるでしょうか。」と教師に尋ねた。

「お前では東大は難しいだろう。」と言われ、諦めた。

大学時代、「頑張れば司法試験に通るでしょうか。」と教授に尋ねた。

「お前では浪人しても難しいだろう。」と言われ、諦めた。

「それでは、大学に残って教員になることはできますか。」と再度尋ねた石破に教授は、「お前より優秀な奴が大学に残ることになっている。」と現実を突きつけ、学究の道も諦めた。

このように挫折によって、多くのものを諦めてきた石破が、それでも諦めきれなかったものが三つある。

それは、『今の奥さん、政治家になること、総裁になること』である。

大学四年間の片思いの末に振られても、再アタックして、ようやく結婚にこぎつけることができた。

当初出馬する予定だった選挙区から出馬できなくなり、田中派に入れなくても、下積み期間を経て政治家になることができた。

そして、総裁選に三回出馬して、三回とも日の目を見なかった彼が、いずれその本懐を遂げることができるのか、ということは、非常に大きな問題なのだ。

 

 

銀行員時代は、百万円多く貸してしまい「首吊って死のうかな」とまで思い悩み、

政治家になってからも、「増税改憲」を掲げていながら方針転換した宮澤内閣不信任案に賛同、今度こそ「増税改憲ができる」と思い、小沢一郎についていけば、今度は小沢まで「増税改憲もしない」方針に転換し、離党してひとりぼっちになる。(注釈1)(現在は①これ以上の増税はしない②改憲は合区解消などの方が優先すべきで、九条に関しては引き続き慎重な議論を重ねていく、という方針)そんな石破を叱ったのが竹下登で、自民党に引き戻したのが橋本龍太郎だ。

竹下は「正論で人を傷つけるようなことがあってはならないよ。」と石破に言いつけ、党内での居場所を作れるよう尽力した。

橋本は、事務所を訪れた石破を暖かく迎え、普段とは何も変わらない様子で接した。

 

今でも石破の議員会館の一室には、竹下と橋本の写真が飾ってある。

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彼の親中派路線は、彼を政界に引き込んだ田中角栄、そして恩人である竹下登橋本龍太郎の遺志を引き継いだものであると、私は考えている。

 

石破派の役割

石破派は人数が少なく、大して金の匂いもしない、新しい派閥である。

ところで、わたしは代議制民主主義に派閥は必要不可欠なものだと思っている。

「派閥をぶっ壊す」大層聞こえのいい言葉だが、この号令のもと官邸に権力を一極集中せしめようと謀略を練った政治家がいた。岸信介である。

そもそも派閥の起源は、財閥の解体にある。戦前、政友会は三井、民政党は三菱という資金供給窓口があり、財閥から党首、陣笠議員という政治資金供給の流れが定着していた。

しかし、財閥が解体され、中小企業の力が肥大化し、政治資金の流れも多様化した。

これを以て「より金が集まる、力のある議員」のところに人が集まるようになり、それがやがて派閥に形を変えたというわけだ。政治献金は所得とみなされ、所得税がかかるので、政治団体ということにすれば、所得税から逃れられることに気がついたのは石橋湛山で、それを利用して派閥を非政治団体にしてしまえば、金が集まりにくくなり、そのぶん党首や幹事長に金、即ち求心力であり権力を集中させられるということに気がついたのは岸信介であった。頭が良い。

そのようなわけで、派閥をなくすということは、党首に権限が集まるということであり、多大な危険性を秘めている。小泉政権で派閥をぶっ壊した成れの果てが、今の安倍政権一強体制とも言えるわけだ。

更に、保守には二つの系譜があると、田中秀征は述べている。保守本流と、自民党本流である。そこに佐高信の政治家四分類を加えると、

 

自民党本流(タカ)→始祖は岸信介

・クリーンなタカ(金絡みの不祥事は少ない、右翼傾向があるが力もある)

・ダーティーなタカ(よろしいならば戦争だ。)

保守本流(ハト)→始祖は吉田茂石橋湛山

・クリーンなハト(絶滅危惧種、金がない、力を持ちにくい)

・ダーティーなハト(代表例が田中角栄、金絡みの不祥事が多いが多様性があり、穏やか)

 

となる。クリーンなハトは石橋湛山が一番近いように思われるが、力で強引に自説を押し通さない分、金が何かと入り用であり、これらの欠点を補って資金調達に特化したのがダーティーなハトであると心得ている。この理論を適用するならば、安倍首相はクリーンなタカ(政権末期はややダーティー)であり、石破は力を持たぬクリーンなハトであると言えよう。そして、わたしは、ここに浪漫と使命感を見出しているのだ。派閥の無力化は、権力の暴走を生み出す。ならば、反安倍的な姿勢を崩さない石破派が力を持つことは、権力への抑止力となり、党、引いては国の利益ともなるだろうという使命感。

そして、「金か数(力)」がなければ総裁の椅子に足さえかけることが許されなかったような時代を越えて、今、石破が総裁候補と目されているという浪漫。

安倍首相が気に入らないから、石破を応援するわけではない。

政治は所詮「そんなもの」だが「それだけではないもの」でもあるのだ。二人を無理に比べようとも思わない。無意味であると知っているからだ。私は、石破茂という人間が総理総裁になることを夢見ているし、反対に総理総裁になれなかったとしても、党内の抑止力になるという汚れ役を全うすることを切望している。人には人の役割がある。保守政党は権力の維持を目的とするばかりに、カルト化もしやすい組織だ。

野党から与党に返り咲く一因を作った安倍首相を祭り上げる光景は、「英雄、吉田総裁のもとで百年体制を築きましょう」と万歳した頃から、寸分も変わらぬ保守の特性を表している。

祭り上げられる人間が決して悪いわけではない。犬は鳴くし、鳥は飛ぶ、それと同じように、保守政党というものは権力を維持してくれそうなリーダーを重んじる。だからこそ、派閥の領袖は、常に党首を牽制する姿勢を持ち、党内のバランスを保たねばならないのだが、現状、その役割を果たせそうなのは、悲しいかな、石破派しかない。

 

石破茂が正しいとは言わない

挫折に挫折を繰り返し、今も尚、苦衷の中にある石破茂は、決してリーダーシップのある政治家でも、間違いを犯さない正しい政治家でもないと思う。

「選挙の投票義務化」についてもそうだ。賛否両論なのは仕方がない。ただ、石破が優れているのは、一国民が「あなたの意見のここは間違えているのでは」と問い掛ければ、真摯に考え、場合によっては反省し、答えを返してくれる姿勢なのだ。

石破事務所の壁には、かつて、有権者から寄せられた意見書が印刷され、貼られていた。

国民の声に誠実に向き合う、その心構えは、彼が先輩議員から引き継いだものであり、「政治家が忠誠を尽くすべきは国民だけだ。」という心情にも反映されているものである。

これからも、時に間違え、行き詰まり、批判されながらも、馬鹿正直なまでに国民を信じ続ける石破茂を、私もまた信じている。

 

さいごに

石破茂には人間味がないと言われるが、それだけには反論したい。

奥さんに毎日電話をかけて、誕生日や記念日のプレゼントは忙しくても欠かさず、料理や掃除も手伝う。娘さんには時に怒られながらも、今でも一緒に生活しており、例えば、飲み会で深夜を過ぎるときは必ず家に電話を入れる。

猫が好きで、小さい頃から猫を拾って面倒を見ていたが、いつも決まって逃げられていたらしい。

オタク文化への造詣が深く、ガンダムの話をするときは目が輝いている。

被り物だって被る

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カレーも作る

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派閥の仲間とは仲良し

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そして守りたいこの笑顔

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一見して怖い人だと思われがちな石破茂だが、本当はドジもするし、揚げ物が好きだし、宇宙戦艦ヤマトを観て毎回泣くような、普通の人間なのである。

 

今まで、わたしは、批判に対して反論することで石破さんの印象を却って落としてはならないと何も言わないできた。きっとこれからもそうするだろう。けれど、石破茂を嫌っている人も、憎んでいる人も、この記事を読んで少しだけでいい。「変な政治家がいたものだな」と思ってくれたら、これ以上ないほど、石破オタク冥利に尽きる。

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締めに、赤澤亮正語録を置いて失敬させて頂きます。それでは、また。

 

 

 

麻武戦争は代理戦争に非ず

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代理戦争にあらず(2020年7月分)

「クリーンなタカより、ダーティなハトの方がマシ」

これは私が政治ウォッチングをする上で、何番目かに大切にしている信条である。

信念のない正義を囃し立てるよりも、信念のある悪を見守る方が余っ程面白い。

政治に綺麗事が介在する余地などない。

考えても見てほしい。大野伴睦は総裁選前に川島正次郎に3000万円を渡していたが、川島は池田に寝返った。池田は一体、川島にいくら渡していたのだろうか。当時の3000万円を現在に置き換えると

企業物価指数(国内企業物価指数)

101.5(令和元年)÷48.1(昭和35年)=2.11…倍

3000万円×2.1倍=6300万円 になる。

その後、池田は選挙に多額の資金を注ぎ込んだことが切っ掛けで九頭龍ダム汚職を起こすことになるわけだが、官僚の自殺と告発した記者の死、そして池田自身が病死したことによって真相は永遠に闇の中に葬られることとなった。

繰り返すようだが、政治の中に綺麗事が介在する余地などというものは存在しない。

 

そんな思わず目を背けたくなるような現実を、エンターテインメント仕立てで見せつけてくれるのが、他でもない「アソタケ戦争」なのだ。

 

今回はアソタケ戦争をこよなく愛する、この黒幕ちゃんがビシッとバシッと親愛なるフォロワー諸君に政治の世界の恐ろしさと愉快さをレクチャーしようと思う。まあそんなに期待せずに、肩の力を極限まで抜いてお付き合い頂けると有難い。なんてね。

 

まず、アソタケ戦争について簡単な説明をしておく。アソタケ戦争という言葉は存在しない。勝手に私が作った造語である。漢字にすると麻武戦争。生太郎と田良太から取っただけの何の捻りもない名称である。

彼らは福岡という地方都市で血で血を洗うような闘争を繰り広げている。どれほどその争いが熾烈かと言うと、県連大会で乱闘騒ぎが起きて警察が出動するほどである。

「松山(県連会長)は人間じゃねえ!!!!」

「やめて!民主主義だよ!自民党は民主主義だよ!!」

といった怒号が飛び交い、殴り合いが始まる場面を朝日新聞さんがYouTubeに掲載しているのでリンクを貼っておく

自民県連もめすぎて警察沙汰に 福岡、執行部方針に不満自民県連もめすぎて警察ざたに 福岡、執行部方針に不満 - YouTube

 

これほどまでに揉めた原因は何なのか。

____その原因こそが麻武戦争なのである。

戦争の発端

発端は、自民党が下野したあとの県連会長を誰にするか、という議論であった。

もともと武田氏は麻生氏の総裁選推薦人名簿にも名を連ねており、党内で麻生氏への総裁辞任を求める声が高まってきたときには結束の会なるものを作って、

「小手先の政治テクニックは国民には通用しない。ここで総裁(麻生氏)をすげ替えることには、政治家として賛成できない」

と主張している。このように、元来良好な関係を築いていたはずの二人が啀み合うようになったのは、麻生氏を差し置いて武田氏が県連会長に選出されたことが切っ掛けであったりする。

くだらないと思うかもしれないが、2009年の衆院選で福岡から当選した議員は、

の4名であり、県連側は名だたる重鎮達に会長職を今更任せるのは忍びないという思惑のもと、武田氏を推薦したところ、本当は自分に回ってくると思っていた麻生氏の反感を買い関係が拗れた_という、凄絶な入れ違いの連続が引き起こした悲劇なのだ。

 

__それくらいで終わればよかった。

例えば、松山政司議員も応援演説に麻生氏ではなく古賀氏を呼んでしまったことで、関係が悪化したという噂が流れるなどしたが、見る限り決定的な軋轢は生まれていないようであるし、この件に関しても、ここで終わっていれば、まだ関係改善の余地もあったのではないかと思う。

2011統一地方選・2012衆院選・2013県議選

__だが、政治の世界はそんなに甘くなかった。

2011年の統一地方選挙にて自民党県連は2月5日、知事選候補選考委員会で同党県議団会長・蔵内勇夫氏の擁立を決めた。

しかし、「院政」を目論む麻生渡知事や、麻生太郎元首相が急遽小川洋氏の擁立を唱え始め、蔵内氏擁立を決めたはずの自民党県連が混乱し始めた

これを受けて、武田氏は蔵内氏に出馬辞退をしてもらうよう頭を下げなくてはならなくなり、完全にメンツを潰された形になってしまった。

 

その後も麻生氏の猛攻(という名の腹いせ)はまだまだ続く

まず、2012年12月の総選挙において、武田氏率いる県連は、福岡1区に古賀誠氏の秘書・新開裕司氏の公認申請をするつもりであったが、これも麻生氏が党本部に働きかけ、井上貴博県議にすげ替えてしまう。

2013年に行われた豊前市築上郡部の県議補選では、武田氏秘書の西元健氏が自民党公認で初当選を果たすことが出来たものの、またもや麻生氏の働きかけによって県連は別の元豊前市議を推薦し、西元氏は長らく自民党県議団に入ることができなくなった。

2014補欠選

__そして、宿命の2014年4月に行われた行橋市選挙区の福岡県議会議員補欠選挙

無所属の新人・堀大助氏が、武田氏の秘書・小堤千寿氏に競り勝ち、初当選を果たしてしまう。

しかも、堀氏は名目上・無所属ということになっていたが、実は会長が武田氏から松山氏に交代した自民党県連からの公認を受けていたのである。

では何故、無所属ということになったのか。

それは、本来、武田氏の選挙区である福岡11区に含まれている行橋支部の青年局長を務めていた小堤氏が自民党の公認を受けることになっていたのにも関わらず、自民党福岡県連が推薦したのは勝った堀氏であったからだ。このことに武田氏と同党行橋支部は抗議して小堤氏を推薦。自民党が2つに分かれる事態となってしまった。

しかも、堀氏は元々維新の会の候補者として前の衆院選に出馬し、落選ており、それを無理に擁立したので先述した乱闘騒ぎに発展したのである。

 

ここまで読んでお分かり頂けただろうが、アソタケ戦争の前半戦は武田氏が麻生氏からメンツを潰される_即ち、麻生氏が武田氏を圧倒してきた戦いなのだ。しかし、この先、急に風向きが変わる。

 

なんてったって、武田良太は、あの田中六助の甥っ子なのだ。こんなところで退き下がるような男ではない。見た目は何故か年々藤山愛一郎に似てくるが、中身は生粋の川筋者なのである。

前哨戦_2016年福岡6区補選

鳩山邦夫総務相の死去に伴う衆院福岡6区補選で、武田氏は鳩山邦夫氏の次男で元福岡県大川市長の鳩山二郎氏を支援、麻生氏は蔵内勇夫氏の息子・蔵内謙氏を支援し、結局公認をどちらに出すか決まらず、当選した方が自民党に入党するというところにまでもつれ込んだ。

結果は鳩山二郎氏の当選で終わった。

衆院東京10区・福岡6区補選の結果を受けて_二階俊博幹事長/古屋圭司選対委員長(2016年10月23日)】https://youtu.be/fg3lqgR3cMU

鳩山氏の当選報告を受け、公認を出す旨を発表する二階氏の背後に武田氏が映っている。

__特筆しておかねばならないのは、このとき、小川知事が鳩山氏支持に回っていたということだ。このことが、後の保守分裂選挙を引き起こす引き金となる。

そして来るべき、2019年統一地方選挙

麻生氏と、補選で鳩山氏を推した小川知事の関係は日に日に悪化の一途を辿り、終いには自民党が小川知事の公認を取り下げてしまった。

これを受けて小川知事は、再出馬をするかすまいか検討する旨を発表、その後、再出馬することを決断する。それに対して麻生氏が黙っているわけがなく、元・厚生官僚の武内氏を急遽擁立。ここに晴れて、保守分裂の盤面が整った。

 

ここで各陣営のメンツを整理しておく。

小川陣営

 

武内陣営

 

んー、どう考えても小川陣営が強すぎる。

 

実際に知事選の様子を間近で見ていたので分かるが、明らかに大して非のない小川さんを、よく分からない理由で降ろした麻生さんへの怒りが、理不尽なことに武内さんに向くという流れ弾選挙であった。

 

テレビの前で開票結果を待っていたが、まさかの1分も経たずに「小川氏当選確実」というテロップが表示された。

 

これだけは言っておくが、私は、好ましく思っていない政治家であっても、事実を誇張してまで批判するようなことはしないように心がけている。

麻生副総理、現職知事実績「一つでもありますか」福岡知事選 https://youtu.be/GXIupx1Lt50

しかしもかかし、地元に帰ってきてこんなことを言うようじゃ、有権者の不評を買うのも仕方がないと言わざるを得ないのである。

 

f:id:shihoho11:20200701011756p:image小川氏を支持した自民党議員に対する麻生氏の発言


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麻生氏の発言を受けての武田氏の発言

 

あーーー、傑作。

まさにこれはエンターテインメントである

 

そして、先述した選挙結果の詳細も念の為掲載しておくが、

▽小川洋(無所属・現)当選 129万3648票
▽武内和久(無所属・新)34万5085票
▽篠田清(無所属・新)11万9871票

と、言うまでもなく、凄まじい小川氏の圧勝で保守分裂選挙は幕を閉じた。

おまけ

古賀誠のコメント

「いろいろな状況や環境の中でその時その時決断をするのは、党の責任者であり、難しい問題だ。ただ、7月の参議院選挙で、また一緒に頑張って、われわれの候補者を当選させるのかがいちばん大事なことで、それに向けてまとまっていくことだ」

山崎拓のコメント

「やはり選挙は県民の民意を無視した形で押し通そうとしたら、強力なしっぺ返しを受ける。オウンゴールでしょう」

(さすがに「麻生太郎は腹切って死ね」と言っていた人は完全に振り切れていて面白い)

更に波乱は続く 県連会長選出

知事選も終わり、事態は収束したかに思えたが、メンツを潰された麻生氏が大人しくしているはずがない。

  1. 蔵内県連会長が辞任。次期会長を決めなくてはならなくなる。
  2. 武田氏は会長に岸田派の山本幸三元地方創生担当相を担ごうとする
  3. 麻生氏は原口剣生県議を担ごうとする
  4. 立候補には県連役員62人のうち20人以上の推薦人が必要だが、原口氏は県議ら43人の推薦人を集め、山本氏が立候補できない状況に追い込む。
  5. これに対して武田氏・山本氏は意義を唱えるが後の祭り
  6. 原口氏が県連会長に選出される
  7. 武田、山本両氏らが11日の総務会を欠席
  8. 福岡選出の議員13人中麻生派を除くの9人が異議を唱える事態に発展

 

加えて、武田氏のパーティの日程に蔵内氏の会合の日程を被せ、動員を分担するなどの偶然か故意的なものなのか分からないレベルの嫌がらせも行われていたりして笑ってしまう。

 

しかし、繰り返すようだが、武田良太はこれで黙ってるほど善人ではない

 

皆さんご存知の通り、武田氏は第4次安倍第2次改造内閣にて、

に任命された。

 

これに震え上がったのは私だけではないはずだ。

 

だって、あれだけ副総裁に面と向かって喧嘩売ってた人がまさか入閣するだなんて、誰も予想できないだろう。

 

実際、閣僚リストを受け取った麻生氏は武田氏の名前を指で弾いたというような話も、嘘だか本当だか分からないが巷には流れており、武田氏が勝ったと言っていいのか、それとも自由を奪うためにわざと入閣させたのかが分からない以上安易なことは言えないが、ただ、この人事を麻生氏が快く思っていないこと、そして、武田氏にとって絶好のチャンスであることは確実である。

アソタケ戦争の勝敗予想

わたしはこの長い戦争を制することになるのは、より寿命が長い方だと思っている。

不謹慎な発言だと承知の上で敢えて言うが、間違いなく79歳の麻生氏よりも52歳の武田氏の方が長生きするのは必然である。

それでなくても、麻生氏はそろそろ引退する時期に差し掛かっており、いくら地盤を息子が継いだところで、武田氏には対抗できない

加えて、麻生氏は本来、麻生支持だったはずの小川知事や山本氏までもを敵に回し、周りを固める議員は当選回数が少ない議員ばかりになっている。

資金力だけで言えば、麻生財閥を凌ぐ鳩山家もすっかり武田派であり、元々武田氏自身が山崎派に属していた縁もあって、麻生氏以外の重鎮も武田氏に対して敵対的ではない。

 

そして、何より特筆すべきは二階派の後継者が武田氏になる可能性があるということだ。

 

実際、武田氏は郵政選挙造反議員として勝ち抜いていたり、政権交代選挙では4万票以上の差を付けて当選していたり、県連会長時代の衆院選では11人中11人を当選させたり、党員獲得数が党内1位であったり…資金作り・党員を集める実績・選挙の強さにおいては派内に右に出る者がいない状況だ。

 

不祥事や失言などを起こす心配は無論メチャクチャあるが、派閥の面々を見渡してみても、後継者の有力候補の1人であることは言うまでもない。

 

もし、麻生氏が引退したあと、武田氏が二階派を継ぐようなことがあれば…

完全に福岡は麻生王国から武田帝国になるであろう。

この戦いを、麻生と二階の代理戦争などと嘯く評論家もいるが、それは違う。

アソタケ戦争は、紛うことなき、両雄対決なのである。

 

おまけ(2019年知事選後の武田氏のコメント)

「現職じゃない新人候補に推薦を決定した時も、今回の県連会長の決定も、全く一緒なわけ。『ルールには抵触してない』と。一部の県議会議員と一部の国会議員が密室で談合で決めて『ルールにのっとってる』って言うんだけど、この差で負けてるってことは、いかに組織を私物化しているかということの表れなんだよね」

 

「みんなの気持ちが完璧に離れてるってことにどうして気づかないのか。何でもいいから勝手に決めて、選挙やってみたら、みな負けるというようなことが、果たして許されるのか」

 

「ここ最近では、福岡6区の補選、県議会議員の補選、県知事選挙、全ての選挙で負けてるんですね。しかも大差で。知事選にいたっては、100万票負けるなんてことは、空前絶後ですよ。それはいかに自分たちの判断が間違っていたか。派閥抗争に持ち込もうという考えなんか、さらさらない。いかに、有権者というものに耳を傾けなかったか。そこの反省なくして、次に進むってことは考えられない」

 

「今まで何が悪かったのか、どこをどう改めなきゃいけないのかっていうことを検証して、それを改めることが大事なわけであって。そういう努力がなかったために、これだけの県民からそっぽ向かれるような結果が生まれたわけだから」

 

――――――ここから下12月25日に執筆――――――

アソタケ戦争の更なる発展(2020年12月加筆)

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さて、みなさんもご承知の通り第一次菅内閣が発足して3ヶ月以上の月日が経過した。

麻生太郎の立ち位置に変化は見られないが、武田良太総務大臣に昇格を遂げた。おもしろすぎる。

(携帯料金の引き下げやNHKの受信料改革において既に一定の成果をあげるなどかなりのやる気を見せており、それは今週放送されたプライムニュースでの発言からも十二分に伺える。リンクを貼っておくので興味のある人は是非視聴されたし。)

 

https://www.fnn.jp/articles/-/124264

 

そんな武田良太麻生太郎の近況を今日は満を持して振り返っていきたい。

 

まず、

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6G研究開発に対しての投資について揉めている。

最高におもしろい。

 

子分の失態

次に、武田氏の子分である宮内秀樹が問題を起こした。

https://news.yahoo.co.jp/articles/54ce6296703be658550c68c729ec6432d76a8fd5

「鉄筋は入っていない」 高速道手抜き工事、NEXCO中日本の調査結果が判明

 

どうして宮内氏の選挙事務所は宗像市にあるのだろうと、かねてより多少の疑念は抱いていたのだが、癒着のある建設会社(大島産業)が宗像市に社を構えているというなら色々と納得がいく。それにしても福岡四区は前任の渡辺具能といい、何かと人騒がせな議員が出てくる呪いにでも掛かっているのだろうか。今のところ大きく取りだたされてはいないが、武田氏の弱みになることは間違いない。

 

なんと言っても宮内氏と武田氏の距離は死ぬほど近いからである。

 

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(ツーショット)

福岡5区の保守分裂が丸く収まったのも、宮内氏の不祥事と関係があるのではないかと思わずにはいられない。

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麻生派の原田氏(現職)に対して県議の栗原氏が『引退勧告』をしたことではじまった一連の騒動は、先日、県連の仲介により『栗原氏を原田氏の後継者とする』ことで収束した。現職側が麻生派であることからも、裏で糸を引いているのは武田氏なのでは?と疑っていたのだが、真相は闇の中である。

しかし、武田氏が本当に関係していたとしたら、収束した時期的にも宮内氏の騒動が要因で食い下がることになったとも考えられる。

 

因みに『高速道路工事において耐震性を謳いながら鉄筋入れてなかった事件』について宮内氏に説明を求めている吉松源昭県議は麻生派の大家敏氏と近いと言われている。またおもしろくなってきた。

 

山口3区に飛び火

さらにこの二者の対立は他派閥との抗争にも飛び火している。そう、山口3区の保守分裂である。

岸田氏は大宏池会構想と称して麻生派に協力を呼びかけており、実際に麻生氏とかねてより(詳細はこの記事の上の方を読んでほしい)対立していた古賀誠最高顧問が辞任するなど風向きが変わってきた。

そんな中での岸田派VS二階派の保守分裂抗争。血が騒がないわけがない。これはまたアソタケ戦争の匂いがする。きゃー。

福岡6区の補選については上述の通りであるが、ここで一つ補足がある。武田氏が支援した鳩山二郎と争った蔵内謙は岸田派の林芳正の秘書だったということだ。

 

武田良太二階派)→鳩山二郎を支援

麻生太郎→蔵内謙(林芳正の秘書)を支援

 

これは大変ですよ奥さん。

岸田派・麻生派VS二階派武田良太)みたいな構図。これは二階派の劣勢か…?とも思うが、菅首相は麻生氏と良好とは言い難い関係を築いているし、総裁選で争った岸田氏(最近になって政権に対する苦言を呈することも増えた)には睨みをきかせておきたいだろうし、まだまだ先は見えないものの、おもしろくなることはまず間違いない。

 

それにしたって当選6回で大御所を相手にここまで大立ち回りしまくってる武田良太は流石に田中六助の甥っ子だな…と思う。

 

そんなわけで今後ともアソタケ戦争からは目が離せないという何とも締りのない結論で締めたいと思う。またお会いしましょう。

┈┈┈┈┈┈ここから追記┈┈┈┈┈┈

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武田良太という政治家(2021年1月加筆)

二階俊博は言う。『武田良太は仕事に真面目で苦労話や自分語りをしないからいい』と。しかし、自分語りをしないがゆえにいまいちその人物像を掴みにくい政治家でもある。今日は過去のインタビューや自伝などを元に武田の遍歴を振り返っていきたい。

家庭教師が田中六助

言うまでもなく武田は田中六助の甥っ子であるが、田中六助は武田の母親の兄にあたり、帰郷する際は『定宿』として武田家を利用していたらしい。帰ってくるたびに万札を渡し『フルーツ買ってこい、おつりは良太が持ってろ』と言ってくれる伯父の来訪は嬉しいものであったそうである。

元々、近所の家の窓ガラスを割って回るような少年であった武田も、伯父に勉強を教わるときは大人しくしていたようだ。科目は『国語、算数、社会、マックス・ウェーバー(!)』

何を隠そう田中六助、まだ赤子である武田を腕に抱いて『良い後継者が生まれた』とニコニコしていたくらいだと言うのだから色々と察するものがある。実兄が政治家であることすら快く思っていない武田の母親(つまり田中六助の妹)に対して『良太は政治家なんかいいんじゃないか』と話していたそうだ。そんなこんなで小学生の頃から何気なく『政治家になるのもいいな』と思っていた武田少年は母の願いもむなしく、伯父の葬式に参列した際に中曽根康弘らが参列しているところを目の当たりにして『自分も政治家になるんだ』と固く心に誓ってしまう。早稲田に進学するのを決めたのも政治家になりたいと思ってのことだったそうだが、敢えて政経学部ではなく英米文学科を選んでいるのが謎である。

亀井オヤジとの出会い

亀井静香なくして武田良太は語れない。

いつだったか、『何故武田良太チェ・ゲバラが好きなのか』的な疑問を綴っている記事を見かけたが、それは亀井静香事務所にチェ・ゲバラ肖像画があったからにほかならない。

大学生のとき、伯父みたいに新聞記者になってから選挙に出ようかなと考えていた武田の人生を変えたのがこのオヤジとの出会いなのである。

初対面で『腹減ってねえか、メシ行こうか』と切り出した亀井に対する第一印象は『心遣いの出来る人』だったようだが、この『心遣い』は初出馬から浪人時代、当選後まで途絶えることなく続いていく。

選挙に出ると息巻く武田に亀井は『死ぬ覚悟はあるのか』と静かに問うた。それに対し『死ぬ覚悟ならあります』と啖呵を切って亀井の事務所を出た武田であったが、帰り際に福岡に帰る飛行機代がないことに気づき、戻って『オヤジ、飛行機代がありません』と打ち明ける。

亀井は『バカヤロー』と言いながらハダカ銭の札束を鷲掴んで差し出す__、帰りの飛行機代すらないのに政治家になるという意志を枉げなかった武田にも、それを受け入れ見放さない亀井も流石と言わざるを得ない。

『なら母さんが死んでくれ』

さて、息子を政治家にすることに断固反対していた母親はどうなったのか。

『選挙にどうしても出ると言うなら、

あなたを殺してわたしも死ぬ!』
無論めちゃくちゃ反対した。対する武田良太も負けてはいない。

『母さん、俺まで殺しちゃ選挙に出られない。

すまないが死ぬなら母さんだけにしてくれ』
流石にここまで言われては引き下がるしかなかったのか、それとも息子の決意に胸を打たれたのか、家族の同意も無事に得て出馬することになった。

いつの間に、伯父の葬式を機に打ち立てた『政治家になる』という志はここまで骨身に徹されるほどのものになっていたのだろうか。自伝を読んでも、どんなインタビューを見ても完全に伺い知ることはできないが、『保守本流の直言(田中六助の著書)』を読んだことは大きな契機であったようである。

公認なんていらねえよ

わたしが武田良太を推しているのは彼に一本筋が通っているからである。

その一例が『公認』を巡っての問題だ。

武田良太は四回目の選挙を無所属で勝ち抜き初当選を果たしたが、本来は公認がもらえるはずであった。それを他党から入党した現職議員を『現職優先』の一言で優遇し、覆したのは党本部なのである。

だが、そのあと、亀井は武田を比例上位にするようにと党に掛け合い『比例名簿8位内』という確約を得る。

ここは比例に回って手堅く勝ちに行くか…、並の人間ならばそう思うであろう。

しかし、武田は『手堅い一勝』を選ばず退路を断ち、『勝敗の分からない戦い』を選んだ。

オヤジには申し訳ないが、とりあえず議員バッジをつけるというような半端な政治家を有権者は望んでいるのか、自分はそうは思わない。

今まで三回落選しても支えてくれた後援者に『武田良太」という名前ではなく『自民党』という党名を書かせて当選するくらいならば___、裸一貫での最後の戦いを挑む。

数日眠れない夜を明かし、そう決意した武田は早速後援会のメンバーに『無所属で出馬する』旨を伝えた。

後援者はわざわざ亀井の事務所を訪れ、『今回のことについては本当に感謝しています。しかし、良太は必ず私達が当選させますから、どうか彼の意向を尊重させてください。』と説得を試みたという。

亀井は武田に電話し、『お前はこんな支持者を持って幸せモンだな。絶対に勝てよ。』という言葉をかけた。オヤジの優しさと力強い励ましに胸を打たれた武田はまた『絶対に勝つ』という意志を強めた。

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公明党・北原守の涙と推薦書

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無所属で出馬することを選んだ武田を支えたのは公明党であった。

選挙が始まる数ヶ月前から『公認がもらえなくても自分は出馬する、だからそのときは応援してもらえないだろうか。』と打診してきた甲斐もあって支持を取り付けたのだが、実はこの裏には涙なしには語れない裏話がある。

公明党側としては本来ならば連立を組んでいる自民党の候補者を支持するのが筋であり、おまけに公認が決まるまでは武田当人の態度もはっきりしない。不満が燻るのは避けられない流れである。

しかし、公明党の県議の重鎮であった北原守は懸命に党を説得し、武田陣営の腹が決まるのを待っていた。

武田が『無所属で出馬することになりました』と報告した際には、『貴方を信じてよかった』と涙ながらに抱き着き、後日、自分の名前で党に推薦書を出したという。

その後、武田陣営は公明党の比例候補者をバックアップし、公明党は武田を支援するという健全な共闘関係が築かれるわけだが、公明党側は自分たちのことはそっちのけで武田の話しかしないし、それを聞いて感動した武田の後援会は公明党の話しかしないしで、あべこべな街頭演説が行われていたというのだからますます面白い。

石原慎太郎のユーモア

さて、無所属を選んだということは党の規律に反するので決まった党から応援を呼ぶことはできないし、選挙カーも一台しか使えないわけであるが、それでも武田陣営は奮闘していた。

『応援なんか来んでも、良太には自分たちがついとるけんな。』後援者は口を揃えて励ましていたらしいが、そんな武田陣営に思わぬ政治家が応援に駆けつける。そう、石原慎太郎だ。

『どうも、裕次郎の兄です。実は裕次郎より歌が上手いです。聴きたければ良太を当選させてください。彼には志があります、議会にさえ送ってくれれば亀井静香も、自分もついています。間違ったことをすれば、自分が殴って亀井さんが蹴飛ばします。だから安心して送り出してやってもらえないでしょうか。』
この演説は主に御婦人のハートを掴んだらしく、当人曰くかなりの効果があったそうである。武田のカラオケの十八番が石原裕次郎なのとも関係があったりして…。

オヤジの土下座

応援していたのは公明党や石原だけではない。

全ての町村をまわり、武田本人には『気を遣わせるから』と知らせず、有権者に土下座までして『良太をよろしく頼む』と言っていた政治家がいた。そう__、オヤジ・亀井静香である。

10年間にわたって武田を支え、見守り続けてきた亀井を、武田も死ぬほど慕っていることが自伝の文面からは切々と伝わってくる。

10年もついてきてくれる後援者、わざわざ仕事をやめてまで秘書になった友人、最初は反対していても結局誰よりも応援してくれる家族、自分のために土下座までするオヤジ、泣きながら信じてよかったと抱きつく自分よりも遥かに年上の政治家__武田には地盤看板カバン以上の何かがついていたのではないかとしみじみ感じる。

初当選、減った14キロ

そして、晴れて武田は苦節10年の末に無所属で当選することになるのだが、なんと選挙戦で体重が14キロも減ったというのだからどれほど厳しい選挙だったのか察するものがある。

朦朧とする意識の中、集まった5000人の後援者が泣き、拍手し、換気に声を弾ませる様子が見える。

女性職員に鯛を渡されて、掲げて、万歳して、朝の5時までかけて応援してくれた人の家を回る。

後援者もまた夜通し寝ずに待っていて、喜びを分かち合う。

かくして、武田は『衆院議員 武田良太』と相成った。余談だが、当選後一年は「先生」と呼ばれても誰のことだか分からず気が付かなかったらしい。

一期生の武田の面倒を見るためか、それとも単にパシリにするためか、議員宿舎の部屋は亀井の隣だった。

田中六助像の前での男泣き

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(撮影:俺)

初登院の日、武田を見送るために1000人以上の後援者が田中六助の銅像の前に集った。

『田中六助を超える政治家になって、国や故郷のために働いてくれ。』

後援者にそう声をかけられて男泣きに泣きながら送り出された若き政治家も、今や総務大臣であると思うと感慨深い。

『大衆の中に生き、大衆と語り合い、大衆の中で死んでいく』ことを信条とし、『大衆の中で“レッテル”というものが一人歩きするときに危険な時代が来る』と意外にも穏健な姿勢を見せる武田良太は一体何処に向かい、何処まで上りつめるのか。

そして、オヤジ_亀井静香志帥会を継承することになるのか。また、福岡5区、県知事選と保守分裂を回避した先に新たな火種はあるのか。今後とも目が離せない。

 

✎︎____________ここから更に追記

お膝元の動乱(2021年3月加筆)

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さて、総務省接待問題にオリンピックに相変わらずの様相を呈している政界ではあるが、今年はなんといっても衆院選がある。4月の知事選では分裂を回避したので今度は『ある意味分裂』とされる福岡11区、つまり武田良太のお膝元の状況について考察していきたい。

一応知事選についての解説記事のリンク(みなさんも既に読まれていることとは思うが)も貼っておく。

「犬猿の仲」の麻生、武田両氏が「歴史的接近」 福岡県知事選の舞台裏(西日本新聞) - Yahoo!ニュース

 

さて、まず昨年の夏頃に前回の選挙には希望の党から出馬していた上智が次の選挙にも出馬することを発表した。

 

野党支持者からすれば、接待問題で揺れる総務省の責任者であり、二階俊博の側近である武田良太を追い落としてくれる救世主のように見えるかもしれないが、果たしてその読みは正しいのであろうか。

純粋に村上先生を支持している方々に関して、何か口を挟んでやろうなどという気は毛頭ない。確かに武田先生贔屓な部分は多少あるかもしれないが、そのへんはあたたかい心で平にご容赦願う。

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産経新聞より引用)

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西日本新聞より引用)

 

さて、まず何と言っても村上智信は麻生派の議員にとても近い。

 

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麻生派の神崎県議が制作したパンフレットに掲載された写真を見ていてもそれは明らかである。

 

しかも、これは”無所属”になってからの話ではなく、希望の党の公認を受けていた時代からの関係である。野党の公認を受けていながら、自民党議員の制作したパンフレットで麻生・大家・神崎と『地方創生』について和気藹々と語らう様子を見ていると、政治家としてなかなか”サマ”になっているなと思わず感心してしまう。

 

麻生太郎と村上智

このパンフレットの中で麻生太郎は次のように村上智信に語りかけている。

 

麻生太郎:村上君は旧通産省出身だったね。麻生渡元知事も通 産省出身で、この航空機産業や自動車産業の誘致を積極的 に行った人です。 MRJ三菱リージョナルジェット、三菱の航空機の試験 飛行を北九州空港でやるんですよ。北九州空港でやる。そして、あの埋立地に、三菱重工の駐機基地ができ、更に関連企業の進出も期待されている。24時間飛行できるということもあるけど、やはり京築・田川のインフラが整備されてきたからじゃないかね。違いますかね。北九州も、今 一生懸命やってますよ。こういったのがちゃんとつながって、同じような夢を描き、同じような絵を描いて、同じような方向に進んでいくと、スピードがつくんですよ。今、 ものすごく整理が出来ているから、さぁーと話が通りやす い。そこが今一番肝心なところだと思いますよ。」

 

筑豊全体の団結を促しているが、まあ、確かに団結するためには”反麻生”の芽は取り除かねばならないのだろう。)

 

これに対し、村上智信後援会会報第10号は見事に応えている。

 

〇九州国際空港を整備! 苅田町にある北九州空港について、しっかり投資し て利便性をさらに高めることで、地域の経済を成長さ せる国際空港へと整備できるとFさんは指摘します。 具体的には以下の三点です。1門司駅から空港を経て苅田駅に通じる鉄道を整備して、そこに特急電車を走 らせる。2その特急路線と新幹線が交差する箇所に駅を新設する。3滑走路を延ばし、海外からの大型旅客 機が何便も離着陸できるよう整備する。 北九州空港の利便性が高まることで、京築・田川への国内外からの人の往来や企業や工場の立地も活発に なり、人口も増加に転ずるでしょう。空港からの特急を日豊本線に直結させれば京築への交通アクセスはさ らに便利になります。また、田川へのアクセスを改善 するため、空港から田川へ高速道路を通すことが重要です。

 

先輩議員に言われたことを自らの政策に活かす姿はあっぱれと言わざるを得ない。

 

つまり、分裂は分裂

だが、私がここで問いたいのはそんなことではないのだ。村上智信は武田良太に立てられた刺客と見られても仕方のない立場にある。つまり『保守分裂』を引き起こす要員であるということだ。しかし、表向きには元野党公認候補、現無所属というクリーンな看板を背負っている。村上智信側にそのような意図がなかったとしてもだ。それではフェアな選挙にならないのではないか。村上智信は本人の言葉をそのまま借りれば『周りに流されず』『困っている人を助けたいという熱意に溢れた』優秀な候補者であるという。同じ『保守』の候補者として正当に評価され、選挙戦を戦ってくれることを祈るばかりだ。

Q,メディアを責めるだけでいいのか?

知る権利とは生まれながらにして人間が持っているもので、しかし我々はいちいち当事者に話を聞きに行く訳にはいかないから、マスコミに代行してもらっている。「知る権利」を委託して、代わりに行使してもらっているのだ。しかし、国民の知る権利を預かっているマスコミは長らくその役割を十分に果たせていない。その起源は戦前にまで遡る。マスコミは戦争を止めることができなかった。

 

これは後日公開する予定の緒方先生に関する記事でも述べていることだが、「戦時中、大新聞は全く戦争に抵抗しなかったが、信濃毎日新聞や福岡日日新聞のような地方紙や文藝春秋などの雑誌媒体は戦争に抵抗していた」というような批判を目にすることがある。

この指摘は目の付け所自体は間違っておらず、大新聞の広告収入への依存度が高く大所帯であるために社員の生活を守ろうと保守的になる傾向を鋭く突いていると思う。

しかし、指摘をした当人はきっと「だから大新聞は戦時中怠けていたのに今更戦争を批判する資格などない」と続けたいのだろうが、問題の本質はそこにない。

大新聞には限界がある。地方紙は読む人が限られる。比較的良質な雑誌媒体は発行するのが月に一度である場合が多く、それでは時流を見て適切に批判することが出来ない。

つまり、日本には「少人数で小回りが効き、全国規模に展開しており、少なくとも週刊ペースで発行されるクオリティペーパー」の存在が必要不可欠なのだ。

 

日本は緒方先生の言葉を借りれば「言論逼塞の時代」を経験した。数多の言論統制の法律に縛られ、発禁をかけられ、活版機には砂をかけられ、軍部や内務省に圧力をかけられた。それらに怯んだ言論人は次第に何も言わなくなり、寧ろ政府や軍部に忖度した報道を展開するようになった。形ばかりの抵抗も弱くて甘いばかりで、何の成果も遂げられなかった。

左派は軍部が全て悪かったと言い、右派はマスコミの揚げ足ばかりを取るが、それで何か得られるものはあるのだろうか。私達は、犯した過ちを三度繰り返さぬように歴史の教訓から学ばなければならない。「あの人が悪かった」という思考には意味がない。そこに続く言葉は「だから私は悪くない」であることが多いからだ。東條英機が悪い、朝日新聞が悪い。それは結構。ならば私も悪い。そういう当事者意識こそが、惨事を繰り返さないために必要なものなのである。

 

つまり、言論人は言論逼塞時代を省みて、どうすれば言論弾圧から言論の自由を守れるかという検証を怠り、それに対して「知る権利」を委託しているはずの国民は無関心か、短絡的な批判しか向けなかったためにこの言論が地に落ちた現状に至ったのではないかと私は考えているのだ。

 

ネットが普及して情報伝達のスピード自体は上がった、しかし信憑性は下がり、国民のメディアリテラシーが必要とされるようになった。

そんな中で、信頼出来る情報を正確に発信しようという意思のあるメディアに私は存在していて欲しい。これは願望なんかじゃない、「知る権利」を守るための闘いだ。

 

戦後マッカーサー司令部が廃止を命じた言論統制に当たる法律は「新聞紙法、国家総動員法、新聞紙等掲載制限令、新聞事業令、言論出版集会結社臨時取締法、同上施行規制、戦時刑事特別法、国防保安法、軍機保護法、不穏文書取締法、軍用資源秘密保護法、重要産業団体令及び同上施行規制」であり、

これらを見たラスキー教授は「ナポレオン三世時代以外にこんな制度があったものなんだな」と嘲笑したと言う。

 

だから戦時中の新聞社が悪くないと言っている訳では無い。

しかし、私はこのような言論逼塞の時代を生きた戦時中の言論人達の声を、"現在言論に携わっている総ての人"に聞いて欲しいと感じる。

上述の法律は廃止された。だのに、満足に政府の不祥事も指摘できないばかりか、曖昧で裏付けの取れていない情報を掲載して世論の混乱を招いている現状を深く恥じ、反省して悔い改めて欲しいのだ。

 

短絡的な批判が却って裏目に出ることは既に分かっているはずだ。アベヤメロ、独裁政治だ、ナチスの再来だと中身のない感情的な言葉を連ねるほど、国民は「安倍さん可哀想」と体制を擁護するようになる。その"可哀想"の影に隠れて犠牲になった社会的に弱い立場に立たされている人達には誰も目を向けない社会になってしまう。日本は元来、マスコミの地位というものが高くない。だからこそ、欧米諸国よりも工夫してやっていかなければならないのだ。

 

「Q,メディアを責めるだけでいいのか?」

私達は自らの"知る権利"をメディアに預けている。だからこそ、今日のメディアの腐敗を彼等だけの責任にしてはならない。もう新聞なんか読まない、テレビも見ない、結構な事だが、そうやって簡単に切り捨てた先にあるのは「言論逼塞の時代」なのではないのだろうか。

 

 

 

 

歴史に生きるということ

時代に生きることと、歴史に生きることは違うという。今回は、2年前の保阪先生のお話を思い返しながら、「歴史に生きる」ということの大切さと、それが出来ていないが故の現在の政治の不甲斐なさについて論じていきたいと思う。

 

まず、時代の中での勝敗は簡単に歴史の中で覆ってしまうということを、いくつかの例を挙げながら示していく。

斎藤隆夫先生は戦時中に軍部に逆らった数少ない代議士の一人で、議会で軍を糾弾するような発言をしたために除名処分をくらうこととなった。

そのとき、除名処分に対して反対したのは僅か八名であり、二百名近くが棄権。百数十名が賛成したことで齋藤先生はその局面において理不尽な制裁を受けることになった。

しかし、歴史の中で見るとどうだろう。

寧ろ、そこで除名処分に賛成した人達の顔は醜く歪んではしないか、と保阪先生は指摘する。

私はその言葉を聞いて思わず背筋が伸びた。

齋藤先生は正に「試合に負けて勝負に勝った」即ち「時代の中では負けたが、歴史の中で勝った」のである。

個人的にもいくつか例を挙げてみようと思う。

まず、給与の殆どを書籍代に注ぎ込むことで知られていたリベラル派の教養人・渡辺錠太郎教育総監二・二六事件で斬殺されたが、今は陸軍の中の数少ない良識派として名を残しており、戦時中は複数の新聞社から追い出され、各方面から圧力をかけられていた桐生悠々の指摘は、戦後の検証の中で正確であったという評価が下され、最近ではドキュメンタリー番組が作られるほど再評価が進んでいる。

 

このように、時代の中で負けた人間が歴史の中で勝つ、或いは、時代の中で勝っていた人間が歴史の中では敗者になってしまうという例は尽きないのである。

 

何が言いたいか。それは安倍政権は既に「歴史の敗者」であるということだ。

では誰が勝者だというのか、お前が応援してる石破茂だとでも言うのか。

本当はそう言いたいところだがそれも違う。勝者など何処にもいないことが問題なのだ。

 

少し前に書店やコンビニの一角に設置された書籍コーナーに積まれた田中角栄先生の本を見て違和感を感じたことがあった。

「英雄のいない時代は不幸だが、英雄を求める時代はもっと不幸だ」という言葉が脳裏を過ぎったからだ。

私達は誰を待っているのだろう。田中角栄先生のように圧倒的な人心掌握術を持った政治家か。吉田茂先生のような決断力ある政治家か。

 

吉田先生にも田中先生にも「歴史の中で生きる」意識があった。それは、サンフランシスコ講和条約を締結する代わりに沖縄に負担を強いることを選んだとき、いずれ恨まれるだろうと自分の決断が及ぼす重大さを認識する常識感覚、そして、日中国交正常化を成す前夜に石橋湛山の病床を見舞い、「貴方が夢見た国交正常化を成し遂げてきます」と約束した、政治を"点ではなく線で捉える"能力が齎していたものであったのではないかと私は考える。

 

自分が今から為すことは、それ以前に道を敷いてくれた先人の功績であり、そして未来に引き継いでくれる子孫あってこそのものである。

また、どんなに善い目的であったとしても、その影で不利益を被る人間も一定数いて、そういう人達から目を背ける政治であってはならない。

 

そういう意識こそが、一時的に反撥を招いたりすることもあるだろうが、後の世の人々、そして当初は対立していた人々からの確かな理解を得るための材料になるのだ。

 

 

しかし、繰り返すようだが、残念なことに最近の政治に「歴史に生きる」意識は微塵も感じられない。

沖縄の県民投票を完全に黙殺して埋め立てを断行するのも、国民が寝ている間に法案を通すのも、憲法改正を謳いながら「イメージ案」などという軽はずみな言葉で言辞を弄し、その中身に対する詳しい言及を避けているのも、この期に及んでマスク2枚配布するのも、歴史の中で見ればとんだ醜聞でしかない。

歴史に生きていればこんな恥ずかしいことは出来ないのが当たり前なのである。

100年後、自国の国民に何と言われているか、今は権力を持っているから物臭な国民は取り敢えず支持してくれるだろう。権力の匂いに釣られて寄ってくる人もたくさんいるだろう。けれど、死後の世界にまで権力は持っていけないし、それが怖くて始皇帝は不老不死の方法を探し求めた。いずれ教科書に彼が件のマスクをつけている写真が載るだろう。同じ時代を生きていないフラットな目を持つ未来の国民は何を思うだろうか。

 

これは、想像力の問題でもある。

政局を操って、その時上手く行けばそれが全てだと思うような短絡的な思考。安易にSNSで持論を展開し炎上する議員。明らかに危機に窮している国民の神経を逆撫でするような発言。この数ヶ月で飽きるくらいに目にしてきた。

彼らは、総じて、自分の言動がどういう反応を齎すかということを導き出すだけの想像力が欠落している。寧ろ、興味すらないのかもしれない。

リアルタイムの国民の反応を想像できない人間に、未来の国民が何を考えるか理解しろというのは、酷な話なのかもしれない。

 

どの道、私に言えるのは「今、暴論を振りかざしている政治家やコメンテーター、学者、無理のある法案を国民に確りした説明もなしに通すとき、それに賛同した議員の名前と顔」などは党派を問わず、思想も問わず、正確に書き留めて次世代に託さなくてはいけないということだけだ。

 

既に公文書すら改竄される時代になっているのだから。